バブル・エコノミーの破綻の一例ともいうべきこの事件は、イタリア政財界全体の腐敗や陰謀めいた暗闘と結びついて、なにやら「悲喜劇」めいた趣を見せています。
それは、冷戦時代だからこそ発生した構図なのですが、特殊イタリア的な独特の味付けがしてあります。
「冷戦」といえば、当時はまだ存在していたソヴィエト連邦とアメリカ合州国との対抗を軸にして構築された特殊な世界構造、国際秩序でした。
この「構築性」は、多分に観念的なもので、まさにいずれの側もイデオロギーの産物、独特のフィクションだったとも見えます。
ある側面では、双方が結託して従属する同盟諸国を脅迫する「共謀関係」だったのでしょうか。
この、今から思えば「かたくなな思い込み」にも似たこの枠組みのなかで、両陣営とも残酷で、理不尽で、汚物と腐臭にまみれた行動をとっていました。
イタリアと公然とかかわっていたCIAについて見ると、この国やヨーロッパ各地で活動していた(公式・非公式の)現地出先機関、そして個々のメンバーや組織は、アメリカ政権中枢の意向とかCIA本部の方針または統制に必ずしも素直に従っていたとは思えません。
なにしろ「反ソ連」「反社会主義」「反左翼」という錦の旗印が輝いていたのです。ソ連の手先、東側の同盟者をやっつける、追いつめるという名目さえ立てば、なんでも許される。
というわけで、半ば犯罪がらみの活動、策謀も「黙認」されていたのです。
むしろ、後暗いビズネスや犯罪に手を染めた手合いが、政治的ないし資金的なバックアップを得るために、自分たちをCIAやNATO、その関連組織に売り込む場合もありました。
資金ほしさ、送金ルートの利用機会のために、極左がCIAやP2に取り入り、極右がKGBに媚を売った例は枚挙にいとまなしとか。
一方、ソ連とKGBにとっては、西欧民主主義のなかで議会制度をつうじて共産党が政権に近づくという形勢は、「暴力革命と一党独裁による社会主義」という自らの正統性の根拠を掘り崩そうとするかに見えたでしょう。
KGBは右翼・極右と組んで、共産党の進出を阻止するための画策を試みました。極右テロ組織に資金援助を続けていたのです。
さて、イタリアの地理的・地政学的な配置はすでに見たとおりです。
そして、総選挙でのイタリア共産党をはじめとする左翼の躍進、司法機関や財政機関での左派の影響力の拡大は、イタリアの右派・保守派が温存利用してきた「古い腐敗」を徹底的に解剖し、解体しかねない趨勢をもたらしました。
政財界の保守派にとっての本当の脅威は、左翼の躍進が社会主義につながること(これが表向きの脅威の口実となった)ではありません。
むしろ、従来の腐敗と汚職、特権や利権の独占やたらい回し、もたれ合いの構図を暴かれ、その「うま味」を奪われるのが怖かったのです。権威の失墜にともなう利権の喪失を何よりも恐れたのです。
彼らに取り入り、たかり、利権の再分配や横流しで味を占めていた「闇の勢力」もまた、同じだったでしょう。
そんなこんなで、1970年代末から80年代はじめにかけて、イタリアではテロルが横行しました。
79年1月には、ミラノの治安判事エミリオ・アレッサンドリーニが極左テロリストに射殺されました。彼は買収や脅迫を拒否した廉直の士で、アンブロジアーノ銀行疑惑の捜査を手がけていました。
右翼とP2の危機を極左テロが救った形ですが、このテロの資金や情報源は右翼から提供されたと見られています。
80年8月には、ボローニャ駅で爆弾が破裂。
極右テロリストが仕かけたもので、やはり、通勤でこの駅を利用する司法当局者(アンブロジアーノ事件やP2事件の捜査担当者)をねらったもの。
一般市民の巻き添えもまったく意に介さない、残酷な行為でした。