カルヴィの有罪判決からロンドンでの縊死までのあいだに、教皇庁の内部ではひそかに陰惨な権力闘争が激しく繰り広げられていました。
暗闘の激化のきっかけは、親マルチンクスの教皇パウルス(パウロ)6世の死去でした。
パウロ6世は頑迷な保守派ということもあって、1960年代半ばから同じ思想のマルチンクスを側近として取り立てて、外国訪問には必ず同行させ、そのおかげで70年には暴漢の襲撃から身を守ることができました。
翌年、マルチンクスは教皇の推薦でIOR総裁に就任しました。
マルチンクスはパウルス6世の参謀格だったのです。
それまでの教皇庁の組織人事は、《教皇=マルチンクス枢軸》にいわば「過剰適応」した構造でしたから、教皇の死去は、ヴァティカンの組織人事の構造や力関係を大きく転換する契機にならざるをえません。
教皇死去の直後のコンクラーヴェでは、親改革派の枢機卿が新教皇に選出され、ヨハネス・パウルス(ヨハネ・パウロ)を名乗ることになりました。
新教皇はマルチンクスの追い落としをねらっている「改革派」枢機卿たちの同盟に接近し、教皇庁の組織改革への道を検討し始めました。
IORは、総裁マルチンクスの罷免と運営路線ならびに組織の改変が避けられない形勢になったかに見えました。
ヴァティカンの国務担当枢機卿カザローリやマルチンクス大司教をはじめとする派閥を切り崩すために、教皇と改革派枢機卿たちは、教皇庁の進歩派や革新派の若手聖職者を結集し、自らの有力な支持基盤の1つにしようとしました。
つまり、支持勢力の拡大です。
ところが、この勢力の「左端」には「解放の神学」派の多数の神父たちが結集し始めました。彼らは、とりわけ南アメリカ諸国で独裁政権の圧政と貧困に苦しむ民衆を救済しようと、身命を賭けて闘う聖職者たちです。
そのなかには、ニカラグァのサンディーノ派左翼政権に参画して、農民とともに農地改革(大地主支配の解体)に取り組んだり、自ら武器を取って右翼勢力と対峙する神父もいました。
とはいえ、新教皇も改革派同盟も、教皇庁の体面を取りつくろうことにかけては、マルチンクスや保守派同盟に引けをとりません。アンブロジアーノとIORとの癒着スキャンダルを封じ込めるように、事態を収める対策を検討しました。
これについては、確たる証拠はないのですが、この映画は次のように描いています。
改革派同盟は、カルヴィの新たな指南役、カルボーニを使って新教皇の意向をカルヴィに伝えました。彼への説得を担当する仲介役には、オプス・デイの幹部を充てることにしました。
オプス・デイの使者は、カルヴィに苦境からの脱出策を提案し、アンブロジアーノの救済について話し合うため、親教皇との面会の場を用意します。
ただし、その条件として、カルヴィはマルチンクスの違法行為や横暴を証言する書面を作成し、またアンブロジアーノ銀行の頭取を辞任することを求めました。その代わり、銀行は教皇庁「専属の取引銀行」の扱いを受ける、というものです。
この映画によれば、この局面でオプス・デイは、イタリアの右翼フィクサーやP2ロッジとは結託せずに、独自の立場をとり、教皇庁の改革派と連携したのです。あるいは、協力し「貸しをつくった」のではないかということです。
見ようによっては、オプス・デイは教皇庁の力関係を組み換えるための「手駒」として教皇によって利用されたかのようです。
しかし逆に、オプス・デイは、枢機卿会議など意思決定の場でキャスティング・ヴォウトを握ったことにもなります。
ところが、マルチンクス派の「反撃」も熾烈になり、教皇庁は多数派工作と権謀術数の修羅場と化します。
ついに、選出から1か月後――改革が始まろうとした矢先に――、突然、新教皇は心臓発作で亡くなります。
この映画では、教皇に紅茶を給仕する係りの修道尼が、ときどき思惑ありげな目つきをし、マルチンクスといわくありげな目礼を交わすシーンがあります。
修道尼が飲み物に心臓発作を誘発する薬剤を混入した、という解釈でしょうか。
これは「ゴッドファーザー V」のプロットに倣ったものと見られます。
ともかく、ふたたびコンクラーヴェが開かれ、ポーランド出身の枢機卿が新教皇に選ばれ、ヨハネス・パウルス2世を名乗ることになりました。
この新教皇はなかなかの「曲者」「やり手」でした。この点は、のちにまた語ることにします。