1940年9月にはドイツ、イタリア、日本の3国軍事同盟=枢軸同盟が成立。翌月には、オーストリア=ハンガリアが同盟に参加、11月にはルーマニアも加わりました。
ファシスト政権のイタリア軍は、39年のドイツのポーランド侵攻前にアルバニアを占領し、そこを拠点に1940年10月、バルカン半島のギリシアに侵入しました。
41年3月にはブルガリアが枢軸同盟に加わりました。
こうして、1940年中に、バルカン半島のほぼ全体が枢軸同盟の支配や占領、征服を受けることになったのです。
東部戦線でもドイツ軍は破竹の勢いで進撃します。
1941年6月、ヒトラーはソ連攻撃を指令しました。
広大なウクライナと南スラヴの平原をドイツの装甲戦車の群が疾駆していきました。
時速40km以上の高速で走る多数の戦車団(無線通信装置を備えていた)が「面状の軍事支配地拡大」のために投入されるのは、人類史上、これがはじめてです。これほどの大きな速度で陸上の戦線を拡大するのも、人類の戦史上はじめてのことです。
戦車隊を盾にして、あるいは並行して何十もの歩兵師団(方面軍)が占領地を拡大していきました。
ソ連への侵攻は、枢軸同盟の勢力圏に取り込まれたバルカン半島・南ヨーロッパ――ハンガリア、ルーマニア、ブルガリア――からも仕かけられました。
6月にはミンスク、リトゥアニアが、7月にはラトヴィア、9月にはキエフ、スモレンスク、エストニア、翌月には南ロシアのハルコフが攻略されました。
10月から11月にかけては、黒海北西岸一帯のオデッサとクリミア半島が制圧されました。
ドイツ軍は、ロシアの心臓部だけでなく、最重要の戦略物資、石油資源の豊富なカスピ海方面への軍事的支配の拡大をめざしていたのです。
1942年初夏にはドイツ軍はカフカーズ地方に侵入。8月にはスターリングラードに迫りました。
南部では、カスピ海西岸地帯、アゼルバイジャンがドイツ軍の勢力下に取り込まれました。
こうして、ナチスと枢軸同盟の戦線は、東部ではバルト海東端からウクライナ、グルジア、カフカーズとカスピ海西岸、黒海、バルカンの全域におよび、北欧ではユートラント半島とスカンディナヴィアの北西部、そして西部では西フランスとピレネーにまで達していまいた。
こうして戦線は恐ろしいほど伸び切って、より多くの敵対者と反乱要因・攪乱要因を抱え込むことになってしまいまいた。
補給線と兵站も長く伸び切り、そのあいだにはいくつもの複雑な管理・連絡システムがが割り込む形になりました。
つまりは、戦線の規模は、維持と管理のリスクとコストが管理不能というほどになったわけです。
もっとも、国民国家が成立する以前には、戦争を遂行する政府の財政能力はきわめて限られていて、数か月以上の持久戦はまず無理でしたから、象徴的な場所を軍事的に制圧すればだいたいそれで停戦・講和になったものでした。ところが、このときには拡大した戦線を維持する能力が問われていたのです。ヒトラーは、あれほど最新鋭の兵器の開発や導入にこだわっていたのですが、それを駆使する軍政や戦略、地政学については、おどろくほど無知だったようです。
というわけで、泡のような膨張ののちには、急速な崩壊と分断、縮退が待ち構えていました。