その夜遅く、ホワイトハウスの大統領に大統領府スタッフの1人から緊急の情報が届いた。事態の経過だった。そして、おそらくはFBI長官からの取引条件の提示も。
つまりは、再選のための立候補を辞退すること。最高裁判事の指名リストを差し戻すこと。マティースとの関係を清算すること――つまりは、捜査の妨害をしないこと・・・などだろう。
その知らせを聞いて、大統領は愕然としてうろたえた。
その様子を映し出す執務室の監視カメラの映像を、中央制御室にいる補佐官コールは冷めた目で眺めていた。おそらく胸中は、「こんな無能で愚かな大統領のために、努力と時間を無駄にした。今後は、FBIの訴追と裁判、服役で、さらに人生を無駄にすることになってしまった…」ということだったのではないか。
だが、判事殺害直後に辞任すべきだったのに、権力のおすそ分けに耽溺していて、悪あがきを選択したのは彼自身だった。
その後、アメリカ全土で、マティースと大統領府のスキャンダルを取り沙汰する騒ぎが巻き起こった。グランサムは一躍、メディアのヒーローとなった。
ある日、テレヴィの人気キャスターのインタヴュウ番組にグランサムが登場した。キャスターは質問した。
「ペリカン文書の作者とされるダービー・ショーという女性は、実在するのですか。それとも、あなたが事件の真相をあばくためにコンタクトした情報源の総体を、そういう名前で括ったのではないですか。つまり、一連の事件の真実、背後にある真実のネイミングでは?」
グランサムは答えた。
「ある意味では、そうとも言えます。彼女は、隠されていた真実であるとも・・・」
その番組を、ダービーは遠く離れた安全なところで、微笑みながら見ていた。
証人保護プログラムで彼女は外国にいるのかもしれない。これがラストシーンだ。
人物たちが織り成す物語を描く映画は、人間を描く。人間を描くとは、特定の社会的環境=状況に置かれた諸個人(の行動や関係性)を描くことだ。つまりは、諸個人が織り成す社会を描くことになる。すぐれた映画は、それゆえ、深い人間観察と社会観察(洞察)の土台のうえに成り立っている。
このサイトの記事は、映像に描かれる人物の心理や背景となる社会環境、歴史状況を追跡することを課題にしてきた。
この作品も、原作者や映画制作陣のすぐれた人間と社会についての洞察の基礎の上につくられている。映像のシークェンスの1場面、1場面には、アメリカ社会の構造や登場人物の社会的な個性(社会のなかで形成されたパースナリティ)についての認識や知識が濃密に畳み込まれている。
その努力や営為は、ただ単に映画を観るという行為だけでなく、物語や背景、因果関係についての思索を経なければ、十分に理解できない。それゆえにこそ、私は、こんな記事を一生懸命書いているのだが。