さて、ルイジアナ州裁判所の陪審員団は、この物語の発端でのように、干潟での石油開発・採掘権は企業に認める――というのも、その地域は「企業城下町」で、市民の多数派が企業の利権にすがって生計を立てているから、企業の利害を強く反映した評決になる――が、しかし、裁判官は問題の性格から見て、この評決に付帯条件をつけた。
採掘権を認めるが、その事業への着手については、当面、停止する、という条件だ。環境負荷について、広く社会的に認められたアセスメントが確定してから、事業の実行を行政が許可すべし、というわけだ。
要するに、玉虫色の判決で、勝訴した企業は、開発事業を進めることはできないわけだ。つまり、実質的な敗訴に近い。したがって、判決を不服として控訴せざるをえない。
一方、環境保護派としては、企業の開発・採掘権が環境保護に優越するという評決は敗訴であるから、当然、控訴する。
つまりは、裁判官の付帯条件は、双方に上級審への控訴を促す判決にしたのだ。いってみれば、地方裁判所での判決を事実上、法的効力のうえでは、無効化するわけだ。
その意味では、陪審員制度に対する抑制・牽制機能を裁判官に与えているわけだ。陪審員の評決に法律の専門家として裁判官が付帯条件をつける権能は、多かれ少なかれ、ほかの州にもある。だが、評決の効果をこれほど減殺する仕組みなのかどうかは、私は知らない。
…で、この物語が展開しているちょうどそのとき、この事件は第五サーキットコートで審理されている最中だったということになるのだろう。法廷はルイジアナ州の連邦ビルにあるようだ。してみれば、環境保護と油井開発の問題を地方的利害の濃厚なルイジアナの地方法廷から、連邦規模での視野を取り込むであろうサーキット法廷で再審理させるメカニズムがここで機能しているということだ。
さて、サーキットコートでの判決が出れば、やはり敗訴した側は最高裁に上訴(上告)するだろう。だから、数年後の最高裁の勢力図がどうなるかを決定する権力を握るチャンスを獲得しようと、マティースは謀略を駆使したのだ。
ともあれ、日本のように「単一な制度」や「画一化された仕組み」が当たり前の社会と比べて、何と変化や地方的独自性に富んだ社会なんだろう。だから、彼らは、世界を舞台とする勝負での力技や説得術を見につけているのだ。違いや多様性は、あって当たり前の生活感覚なのだ。それゆえ、利害の対立による敵対や競争での勝ち方を知っているだろう。
もとより、日本の生活風習が好きだといって、日本に住み着くアメリカ人も結構いるから、一概には語れないのだろう。そういうアメリカ人が日本の裁判制度を考慮しているわけではなかろうが、日本では利害闘争や裁判闘争が単純で、それは概して人びとの穏やかさ――利害闘争意識の抑制具合――に惹かれてのことなのだろう。