さて、この作品でまず顕著なのは、主人公のダービー・ショーの個性であって、ことにその論理的な推理能力と、推理や解明のための情報のありかを嗅ぎ取り、入手していく能力の高さである。それは暗殺者の魔手から逃れていくサヴァイヴァル能力にもつながっている。
たとえば、
@干潟での石油採掘の差し止め訴訟をリードしていた環境保護派の弁護士の死
A最高裁判事2人の殺害
という2つの事件を結びつけ、さらに2人の判事の立場の共通性を見抜き、マティースの会社の謀略という結論にまで関連づける推理力、洞察力。
情報公開法を駆使して、強引に公文書を閲覧し、しかも、大統領府と石油企業(マティース)の癒着を読み取る洞察力。
また、グランサムがこもった山小屋の場所を知るために、妹を名乗ってキーン編集長に電話して、探り出すセンス。
断片的な事実を組み立てる発想、つまり仮説に総合していくセンスの高さ。強引ではあるが、仮説の構築力は目を見張るものがある。
こういう個性=能力・センスを持つ人物(ダービー)がいなければ、この物語は成り立ちようがない。
逆に考えると、
石油開発の利権を渉猟する大企業が、大統領府と癒着して、資金とテロリストを駆使しながら、環境保護派の反対を打ち破るという謀略のプロットが、まずテーマとしてでき上がった。これを、スリラーものとして物語化し、さらに映像化するために、ダービー・ショーという人物像を練り上げたら、こうなったのではないか。
ジョン・グリシャムは、非常にユニークな角度から問題を切り取って問題の断面を描き出す、社会派のスリラー作家だ。構想の壮大さと奇抜さには、いつも感嘆する。そして、後知恵的に物語を分析すると、物語の「本当の主人公」は、事件の背景や全体構図ではなかったか、と思うことがほとんどだ。
つまりテーマが主人公なのだ。
その全体構図の構成要因=部品として、人物造形と人物配置(役割)を彫琢していくのではないか。そのさいには、日常生活での人物や世の中の動きの観察の深さ、広さが物を言う。
こうして私は、以上のように、すぐれた映画作品を観るたびに、原作者や映像制作陣の「人間観察」「洞察力」の深さ、確かさに舌を巻く。面白いなあ、かなわないなあ、と。