第3章 都市と国家のはざまで
――ネーデルラントの都市と国家形成――
第2節 アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗
この章の節の目次
銀の供給体系には16世紀の中頃に大きな変化が生じた。南ドイツの銀山が枯渇していき、それに代わってアメリカ大陸の銀がセビーリャ経由で大量にヨーロッパに流入するようになったのだ。エスパーニャはアメリカ大陸への航路を開拓しながら征服と植民地化を進めて、この諸地方の収奪を開始していたのだ。
世界市場への銀の供給源を押さえていたハプスブルク家は、この時期(1556年)に、エスパーニャ、オーストリア、ネーデルラント、フランシュ=コンテ、ブルゴーニュに加えて北イタリア、サルデーニャ、シチリアなどをも支配していたが、こうした巨大な「継ぎはぎの帝国」を統治するためにヨーロッパ全域で支払いをしていた。国家形成をめざす諸王権・君侯がせめぎ合っていたこの時代のヨーロッパでは、領土や勢力圏をめぐる戦争や小競り合いが後を絶たなかった。
イベリア半島、ネーデルラント、ブルゴーニュ、イタリア、南ドイツ、中央ヨーロッパにまたがる版図のなかではどこかで紛争が起きていて、王朝の経営は、とてつもなく金のかかるものになっていた。にもかかわらず、ハプスブルク王朝は――当時の王権としては当たり前のことではあったが――系統的な課税・徴税装置を備えていなかった。
カール5世は王室財政をまかなうために、アウクスブルクの金融商人、ことにフッガー商会と結びつきを強めながら――特権の付与と引き換えに融資や賦課金の上納を得ていた――、また、その統治下のアントウェルペン銀市場を資金調達の場として利用するようになっていた。金融家や有力商人たちにしてみても、ハプスブルク家への融資は、戦乱続きで貿易からの利潤が不確実になった状況のなかでは、実り豊かな金の使い道だった〔cf. Braudel〕。こうして、ヨーロッパの最も主要な金融経路がアントウェルペンで連結され、銀市場が本格的に形成されていった。
ところで、エスパーニャ王室は大西洋航路を開拓し、アメリカ大陸で征服と植民地建設を進めてヨーロッパ世界市場に結びつけるため――船舶の建造、航海、植民・移住拠点の建設など――に、ヨーロッパから多種多様な物資を調達していた。
エスパーニャはバルト海から来る木材、厚板、タール、船舶、木材、小麦、ライ麦を必要とした。後でアメリカ大陸に再輸出するように、ネーデルラント、ドイツ、イングランドの布地、軽い毛織物、金属製品などの手工業製品を必要とした。・・・早くも1530年、確実なところ1540年以後は、ゼーラントおよびホラントの船舶が、主としてフランデルンとエスパーニャとの連絡に当たるようになった〔cf. Braudel〕。
これと引き換えに、エスパーニャ王室はアントウェルペンに向けて羊毛、塩、明礬、ぶどう酒、干し果物、油、アメリカ大陸産染料材、カナリア諸島の砂糖を送ったが、これで埋まらない差額分は貨幣や銀地金で支払った。エスパーニャの需要がネーデルラントの全産業を活気づけた。1552年には、エスパーニャへの販路を開拓するため、レイデン産毛織物の卸売市場がアムステルダムからアントウェルペンに移された〔cf. Braudel〕。
未曾有の繁栄によって、16世紀はじめには5万におよばなかったアントウェルペンの人口は、1570年ごろには倍以上になったという。都市の商業施設が次々に建設され、市域の街区や街路は整備され、有力商人たちは豪壮な邸宅を建てて贅沢な消費をおこなった。他方では、生活の糧を得ようと下層民も流入して、貧困にあえぐプロレタリアートの数も膨れ上がっていった。
繊維産業、港湾労務、運輸では大量の未熟練労働者が劣悪な条件で雇われるようになった。また、新たに精塩業、精糖業、石鹸製造業、染色業という製造業が形成され、ここでもきわめて低賃金の未熟練労働者が雇われた。彼らは、熟練労働者のように、職能団体に組織されることもなかった。また、熟練労働者層の職能団体のなかでも、給料生活者(賃金労働者)の数が自由な親方職人の数を上回るようになった〔cf. Braudel〕。そして、大量の銀の流入とともに物価と賃金とが上昇し、貧富の差が拡大していった。それゆえ、反乱と騒擾の原因は、いたるところに転がっていた。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成