第5章 イングランド国民国家の形成
この章の目次
イングランドでは特異な地政学的環境と域内構造によって世界ではじめて国民国家が形成された。この章では、その特殊な状況を探り出すことが課題となる。
ところで、イングランドでは、ヨーロッパ大陸のどこよりも早く集権的な君主制統治体制が成立した。それは、9世紀から形成されたアングロサクスン王朝の統治体制を下敷きにして成立した、ノルマン征服王朝の独特の支配構造に起因している。この支配構造は、ブリテン諸島をヨーロッパ大陸から隔てる海洋が決定的な政治的・軍事的障壁をなすという自然条件を土台としていた。イングランドは、西フランクで最有力の君侯によって軍事的に征服され、属領(従属圏域)としてヨーロッパに統合されたのだ。
以上の事情からイングランドは、百年戦争が終結する15世紀半ばまでは西フランク王国ないしはフランス王国に属する圏域として支配階級――王や諸侯など――によって観念されていた。イングランドが大陸とは別個の独自の政治的地理空間として意識されるのは、15世紀後半以降なのだ。同じブリテン島で隣接するスコットランドは、そののちも18世紀はじめまで大陸、とりわけフランス王国の属領のように扱われていた。というのは、隣接する強大なイングランド王権の圧力に抗するためには、大陸の有力君侯との臣従・恩顧関係が不可欠だったからだった。
以上の文脈を理由として、私の勝手な用語法として、百年戦争の結果フランスの領地をすっかり失う時期までは、フランスの君侯として振る舞っていた王をフランス名で表記し、その後については英名表記とする。とはいえ、イングランド支配階級は、18世紀まで主にフランス語を使っていたのだが。
ブリテン島の秩序が、南西スカンディナヴィアやユートランド、ザクセンなどの北海沿岸諸地方との独特の政治的・経済的・文化的な結びつきのなかで形成されたことは、すでに見た。
5世紀半から9世紀にかけて、いくどもユートランドやスカンディナヴィア半島南部、アングル・ザクセン地方の諸部族がブリテンに遠征や植民をくりかえし、9世紀前半には各地方を統治する部族長の連盟を土台にしてアングロサクスン王権が出現した。この間、多くの場合修道院や修道士の指導のもとで農耕地の開発開墾が進み、大小さまざまな農民村落ができあがった。やがて、比較的大きな村落の中心には礼拝堂が置かれ、その周囲の小さな村落群を結びつけた教区が形成された。これが、住民たちの生活の空間的単位になるとともに、部族有力者たちによる統治の基層単位になったようだ。
地方的な諸部族の盟主=豪族たちは王権によって earldman に任命された。11世紀前半には、デーン王権によって――大陸西フランク王国の制度に倣って――イングランドは4つの伯領
county に分割され、地方の有力貴族に大きな統治権限が認められた。
以上の事情から、ブリテンでは有力な地方領主の身分格=爵位としての伯(伯爵)は、 earl と count の2種類がある。つまり、ブリテン古来からの諸部族同盟の盟主としての伯と、大陸西フランク王国の制度に倣って本来は地方を統治する王の代官(地方総督)である伯だ。貴族としての序列格式からいうと、アールの方は、ヨーロッパ大陸における伯よりも上位の領主に当たるともいえる。そして、ブリテンにおける王権による王国統治の地方管区としてのカウンティは、本来は伯領(伯管区)ということだ。
11世紀後半、イングランドを征服したノルマンディ公ギョーム(ウィリアム)は、圧倒的な軍事的優位によって独特の封建的統治体制を築き上げた。ノルマンディ公は西フランク領地の家臣や中下級領主たちを率いて征服活動を繰り広げた。中世の統治権力は土地所有権に基礎づけられていたが、ノルマン王朝は、ギョームの国王戴冠に反対し征服戦争で敵対したすべての領主の土地を没収して従者に分配したため、法観念上、王がすべての土地の唯一かつ究極の所有者として振る舞うことができた〔cf. Morton〕。
王権は、その直属家臣 baron (従臣)に対して、軍役およびその他の奉仕と一定の慣習的な税(賦課金)の支払いを代償として土地を授与した。従臣たちの個々の領地は、戦争にさいして王の軍隊に1人の重装騎士――その装備と従者――を供与する義務を課された封土として授封された。授封者は、土地とともに耕作者たちを支配する政治的・法的権限、つまり裁判所を設け、貢納を課し、あるいは賦役を強制する権能を与えられた。
こうした統治体制は、征服戦争に勝利した君侯としての軍事的権力があればこそ実現したのである。そして、ノルマン王権によるイングランドの征服は途切れ途切れに進められたため、バロン(直属封臣 baron )に授封された個々の領地は小さく、あちらこちらに分散したものになり、バロンたちは1つの領地に王権に対抗できるほど大規模な軍隊を集中させることができなかった〔cf. Morton〕。バロンの所領はいくつかの州に分散していた。その結果、王権から独立した勢力になりうるほど有力な諸侯は生まれなかった。
宮廷は、征服以前のアングロサクスン時代の地方管区制度――州組織 shire / county - hundred system ――にもとづいて中央政府の代官たる州長官 sheriff としてバロンを派遣したが、彼らが地方貴族を統制するための軍事力や権限は、以上の理由から比較的小さいもので間に合った。そのため、州長官が王権から独立しうるほどの勢力を備える条件も成立しなかった。そして、王権は地方の有力領主の家臣・従士となっている中下級領主にも王に直接臣従誓約を求めた。これによって、有力領主が王権から自立できるほどの地方勢力圏を形成することがきわめて困難になった。
それゆえ、イングランド王朝でははじめから中央権力が強く、領主貴族の権力は小さく、軍事力と城砦は王権によって油断なく監視され、貴族間の私闘は「王の平和 pax regis 」の原理の前に封じ込められていた。このことは、農民からの収奪を封建領主がより圧制的で過酷なものにすることに対する歯止めとしても機能した。ゆえに、農民は、領主からの過酷な収奪を抑制する働きを王の支配に期待できたともいえる。王権からすれば、地方貴族の反逆を封じ込めるために、農民からの支援を当てにすることができたわけだ。
しかも、王権は、アングロサクスン・デーン王朝時代からの伝統を尊重し、危急にさいして農民を含めた地方住民が武装して自衛する権利――大陸のアングル・ザクセン地方やスカンディナヴィアの慣習であった――を認め、王の招集に応じて参集する義務を課した。こうして、ノルマン王権が州・ハンドレッド組織に沿って配置された地方権力を掌握することによって、将来の国家的統合の原型がつくりだされた。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成