第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第4節 バルト海貿易とハンザ都市同盟
この節の目次
前節で見たようなバルト海・東欧への植民と都市建設は、商人集団による遠距離商業活動の重要経路の形成という文脈で説明できる。それは、諸地方を広大な貿易圏に統合していくような、商業資本の多かれ少なかれ意識的な活動――の偶発的な集積――なのであった。ヨーロッパ世界経済への歩みのなかでも、バルト海貿易圏とハンザ都市同盟の形成は決定的に重要だった。
というのは、ハンザ Hanse / Hansa は北西ヨーロッパへ商業・工業重心が移動する大きな要因の1つとなるとともに、この移動に随伴したヨーロッパ分業体系が形成される過程のなかで、まさに東欧との交易関係の組織者としての役割を演じたからだ。だが、そこにもまた、すでに見たような都市と遠距離貿易の力学――権力闘争のダイナミズム――が背景にはたらいていた。
バルト海=北方貿易の経路を行きかった商品は主として生活必需品または生産必需品であって、穀物、材木、毛織物、海産物、鉱石、塩、原毛などが取引きされた。つまり、一般民衆の消費物品または製造業の原材料であった。例外的に奢侈品として毛皮が取引きされた。それゆえ、総じてバルト海貿易の主要商品は投機的な取引きになじまない商品であって、ハンザ商人は極力、投機性を排除する堅実な商業を営んだ〔cf. 高橋 理〕。換言すれば、利潤率は地中海貿易に比べて非常に低かった。
つまり、貿易による利潤率は投機的な取引きにともなうリスクとコストをカヴァーできないほどに小さかった――ただし、ヨーロッパ総体の社会的再生産には欠くことができない重要な生産物の大量の取引きだったのだ。量の大きさが利潤率の低さを補うことで、この地域の貿易の総利潤は、多数の都市と商人たちが参加しようと企図――競争参加者が多いために利潤率が低かったのだが――するほどに大きかったともいえる。
大衆消費財および生産財である安価な商品を扱ったので、貿易から利潤を引き出すためには、輸送・商用旅行では節約を心がけ、大量かつ継続的に取引きしなければならなかった。利潤率の低い商品を取引きするということは、資本の蓄積は緩慢であって、個別商人の資本規模は比較的小さいということを意味し、他方で商品を大量に恒常的に取り扱うということは、中小規模の商人資本の多数が結集し、協力し合う関係を組織しなければならないということを意味した。
とはいえ、この時期にヨーロッパでは経済の成長率がかなり低かったか、あるいは人口の成長が経済の成長よりも速かった――余剰生産物はあげて開拓や植民に投入されたから商品流通量の増大としては現れない――とすれば、数%の利潤率でも富と権力の蓄積速度は大きかったと見るべきだろう。
フェルナン・ブローデルによれば、ハンザ諸都市の結束の原因はバルト海=北海貿易機構の維持の困難さにあるという。この交易体制は、東部・北部の木材、蝋、毛皮、ライ麦、小麦、森林産物を西ヨーロッパへ供給し、西ヨーロッパから塩、毛織物、ぶどう酒を東部・北部へ供給していた。そこでは、
利益率はよくて5%内外といったところだったらしい。ほかのどこよりも、計算し、倹約し、予見する必要があった。成功の条件は、需要と供給とを同じ手に握ることであった。すなわち、一方で西欧に向かって輸出し、他方で東欧向けに輸入した財貨を再販売するのにも、そのとおりであった。ハンザ同盟が各地に保有していた海外支店は、ハンザ同盟各都市の商人全員に共通の拠点であって、さまざまな特権によって保護され、粘り強く守り抜かれたのであった〔cf. Braudel〕。
ハンザに結集した70から170の離れ離れの都市は、それぞれ互いに競争して、城塞の内部に立てこもるほどに対立したこともあったという〔cf. Braudel〕。しかし、通商ネットワークとしての集合的力を使えば、交易路がその領地を横切っている多数の君侯領主に圧力をかけたり利潤の幾分かを差し出したりすることで、通商上および防衛上の特権を維持することができた。利害の共有と交渉・取り決めのために必要な言語の共通性は、すでに存在していた。
ハンザ Hansa / Hanse はもともとゲルマン語で「群れ」を意味する語で、やがて「商用旅行する商人の集団」をさす語となり、「商人の団体」ないし「組合」というほどの意味を表すようになったという。市場や商館を開設・運営するための商人組織も「ハンザ」と呼ばれた。
はじめは、たとえばブリュージュのハンザ、ハンブルクのハンザというように、個々の都市ごとの商人が組織した仲間団体=組合 Genossenschaft だった。それらは独立の社団 Köperschaft ――法人格を備えた結社――をなしていて、進出先の都市や領主所領などで商業特権や商館を保有し、さらに関税や租税などでの優遇的地位を獲得していった。ハンザのメンバーは、自分の出身都市の外部で商業(商品の売買)を営み、店舗や倉庫、商館を保有し管理する自由、あるいはハンザ仲間の内部自治をめぐる権利をもっていた。進出先の支配者から団体とその構成員に許可されていたということだ。
13世紀はじめのロンドンの記録によると、ロンドン自体の商人集団がフランデルン14都市からの商人を集めたハンザを組織しているほかに、フランデルンや北ドイツ方面からこの都市に来訪した5つのハンザがあったという。文書には、フランデルン諸都市の商人団体からなるハンザ、北フランス諸都市のハンザ、ハンブルクとリューベックのハンザ、ゴートランドのハンザの名が登場する。そのなかでリューベックのハンザの優位が示されている。
やがて個々のハンザのあいだの取り決めが発達していき、商業諸都市の相互間で商人団体の権利関係について互恵的な協定が取り結ばれるようになった。とはいえ、ハンザのあいだの協定は双方の権利を融合させて共通の法圏――法共同体すなわち政治共同体――を形成するという性格のものではなかった。「ハンザ同盟」は、多数の都市が条約を取り結んで創設されたわけではない。あくまで、個別都市の商人団体の特権についての個別協定の集積としてでき上がったものだった。
こうして、北ドイツないしバルト海一帯のいくつかの都市出身の商人組織のあいだで経済的利益の共有意識をつうじて自然発生的に組織された共同行動から始まり、まずは商人団体のあいだの同盟として生まれ、やがて都市団体のあいだの特殊な同盟となったのだ。
商業諸都市(商人団体)のあいだの同盟としてのハンザは北フランスやフランデルンにもあったが、いつしか北西ヨーロッパ、とくにイングランドやフランデルン、シャンパーニュでは、ハンザとは局地的制限や個別領主圏を超えたドイツ語圏北部の諸都市出身の商人ギルドないしその集合を意味するようになった。
これらの都市団体はといえば、すでに見たような経緯で有力商人層に支配されていた。自然発生的な連合体なので、その構成メンバーを拘束する規約はなく、個々の外地商館 Kontor / Faktorei (諸都市の商人仲間の結集拠点)に規約があっただけだった。したがって、単一の法人格を備えることもなく、それゆえハンザの旗や印章はなかった〔cf. 高橋 理〕。
さて、ハンザの誕生から事実上の崩壊にいたる過程を大まかに区分すると、12世紀から14世紀中葉までが「商人ハンザ」の時代、14世紀後半から17世紀までが「都市ハンザ」の時代と見ることができる〔cf. 高橋 理〕。遍歴商人たちが外地で互いに結束したことがハンザの出発点となり、やがて遠距離貿易網の発展とともに、商人の出身地であり、固定した経営の拠点である諸都市が商人たちの活動を支援・補強するために連合勢力を築き上げたわけだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
⇒章と節の概要説明を見る
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成