補章―3 ヨーロッパの地政学的構造
――中世から近代初期
この章の目次
歴史に仮定をもち込めば、この紛争のなかでアンジュー侯がノルマンディあるいはフランス西部の版図で領域国家を形成することは、あるいは可能だったかもしれない。ブルゴーニュ王国にしても事情は同様だったかもしれない。状況しだいでは、私たちは、今日フランスと呼んでいる地域に3つの国家が並び立つのを見ることになったかもしれない。偶然の連鎖が、今日のフランスを生み出したのだ。
ガリア=「フランス」には、地続きで多くの有力君侯領や有力領主支配圏がひしめき合っていただけでなく、いくつもの独特の圏域に分かれていた。しかも、フランク王国の観念では版図は、ピレネー地方とイベリア半島北東部にかけての地域までが結びついていた。この広大な旧フランク王国の版図は、それぞれ独特の諸圏域に分断された構造をなしていた。
まず、ドーフィネやラングドック、プロヴァンスは、北イタリア諸都市ないしアラゴン=カタルーニャの君侯たちが覇を競う地中海貿易圏に属していた。
次いで、フランデルンからノルマンディ、ブルターニュにおよぶ諸地方は、フランデルンを中心として、イングランド・北海方面およびバルト海方面などと結びついた貿易圏をなしていた。これらの貿易圏はまた、そこに結びつけられた諸地域や諸勢力が優位を競い合う、軍事的・政治的にして経済的な独特の空間をなしていた。
ガスコーニュを含むフランス南西部一帯は、ナバーラ、カタルーニャ、カスティーリャなどのイベリア諸王国との結びつきが強かったが、この地域はさらにフランデルンやイングランド・北海方面と経済的な紐帯を強めていた。
そして最後に、ブルゴーニュ地方はネーデルラントやルクセンブルク、ラインラント、中央ヨーロッパ(神聖ローマ帝国=ドイツ地方)と結びついていた。
これだけ広域にわたり、しかも地方的な違いや分断がきわだったところでは、単一の領域国家への統合ということ自体が非常に困難だった。しかし、そこには法観念上、ローマ帝国の継承者としての西フランクの王位(ガリアの王)というものへの呪縛があったようだ。というよりも、多数の有力領主たちがひしめく地域で、しかも軍事的テクノロジーや財政能力の限界からして、いかなる君侯といえどもこれらの近隣領主たちを全面的に制圧できない状況のなかでは、逆に法観念上の優越に仮託して権威を打ち立てる以外に君侯権力の拡張への道は開くことができなかったのかもしれない。中世にはドイツもイタリアも存在しなかったが、フランスも存在しなかったのだ。
そのため、とにかく王権を形成して統合と集権化を進めようとするとなると、近隣の君侯や領主層との足の引っ張り合いを制圧し、分裂的なフランス諸地方の「ガリアとしてのまとまり」を組織化しなければならなかった。つまりは、当時の共同主観のもとでは、パリの王座を獲得するという手続きを踏まなければならなかったのではないか。あるいは、ブルゴーニュ公家の突然の断絶が影響したのかもしれないし、教皇庁との結びつきが影響したのかもしれない。
ヴァロワ朝以降、歴代のフランス王朝はどれも、王領地の統治のためには十分すぎるほどの強大な権力機構をつくりあげたが、「ガリアの王」として広大な名目上の勢力圏を抑えるために、過大な負担を背負い込み周囲を威圧しなければならなかった。
だが、当時の軍事技術、通信輸送手段、財政手法では、当然のことながら、フランスの諸地方の分裂傾向を押さえ込むことはできなかった。王権はあまりにも力量不足だった。王の権威は、宮廷の周囲に結集した有力諸侯の同盟に依拠していた。ゆえに、地方の反乱や諸侯の闘争が激化すればいともたやすく王権は衰滅ないし破綻するしかなかった。
しかも、ゲルマニアの帝国制度がそうであったように、ガリアでもフランス王国制度――地方の身分評議会、高等法院など――は王権に対する地方領主たちの自立性を維持するための手段となることが多かった。地方貴族や都市代表たちは、地方の身分評議会や高等法院に結集して、王の集権化や貴族特権の切り崩しに抵抗したのだ。
王権は、広大な空間をどうにか名目上の王国につなぎとめるだけで力を使い果たしていたように見える。ところが、ブリテンやドイツ地方、イベリアなど域外の君侯たちにとっては、フランス王権は危険なほどに強大に見えたため、たえずこれら域外の君侯たちから敵視され、域内に対する彼らの干渉や分断工作を招くことになった。
ところで、15世紀に名目上成立していたフランス王国の地理的範囲は、今日のフランスよりもずっと狭く、南西の辺境がピレネー地方で、東側の辺境はフランデルンの南部からランスを経てローヌ河の西側を通って地中海に抜けていた。ドーフィネとプロヴァンスの全域、そしてラングドックの大半は北イタリア諸都市の勢力圏に取り込まれていた。ブルゴーニュとフランシュコンテのほとんどは、名目上、イタリアと同様に神聖ローマ帝国(これまた多数の微小な政治体に分断されていた)の版図に属していた。リヨンやブザンソン、アヴィニョンなどのローヌ河沿いの有力諸都市は、15世紀前半にはまだ領域国家としてのフランス王国に属していなかった。
しかし、このような規模の地理的空間でさえ、当時としては、領域国家形成をめざす王権の版図としては例のないほどの広大さだった。つまり、単一の王権による支配が実現しがたい条件だった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第1節
ブリュージュの勃興と戦乱
第2節
アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー
第4章
イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
第5章
イングランド国民国家の形成
第6章
フランスの王権と国家形成
第7章
スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
第8章
中間総括と展望