補章―3 ヨーロッパの地政学的構造
――中世から近代初期
この章の目次
さて、中世の地中海商業の成長には前史がある。
まず古代ローマ帝国時代にイタリア半島を中心に地中海とその沿岸部全域にわたって組織された交易経路、あるいは軍用道路に沿ってつくられた貢納品の輸送体系の遺制あるいは残骸だ。イタリア諸都市や南フランス(マッシリア)では、帝国崩壊後も、アジアや北アフリカと結びついた地中海交易ネットワークは委縮しながら継承されていたという。
帝政期には、各地での統治のために、帝国の交易経路または兵站経路に沿って中継地やターミナルのように植民都市が建設されていた。都市は諸地域の統治権力の中心として機能していて、そこには周囲の農村を支配する支配階級が集住していた。そのために、ガリアやゲルマニア辺境の植民都市はいずれも、帝国の中心部の有力都市と共通の構造、共通の設計思想によって建設されていた。あらゆる都市に共通する公共施設や居住区、宗教施設の配置は、権力の配分や作用を方向づけていた。
当時の運輸通信技術からして、帝国の中心から日常的に権威の伝達や派兵がおこなわれていたわけではなかった。それでも帝国各地が統一的な政治体としての「まとまり=統合性」を保持していたとすれば、各地の同じような構造の都市が地方統治の中心として同じように機能していたということに大きな原因の1つがあるはずだ。あたかもアメーバが全体を統一する神経系統をもたなくても、同じように機能する細胞群体をなしているように。
この体系はモーリタニア、北アフリカ、エジプト、シリア、アナトリア半島、黒海南西部沿岸、バルカン半島、ダルマティア、エーゲ海、アドリア海、イタリア、シチリア、サルディニア、コルシカなどの諸島、南フランス――ラングドックとプロヴァンス、ガスコーニュ――、ヒスパニアというように地中海全体を包括していた。
7世紀から10世紀にかけての西ヨーロッパでの多くの都市集落は、そのような構造や機能の残骸を何ほどかは残した古代都市の遺構の上に、または近接して建設され、成長した。中世ヨーロッパ諸都市が過去の歴史の残骸や遺制を、都市形成の素材として利用したことは間違いない。
次いで、ローマ帝国の解体後、4世紀末から7世紀にかけては、東ローマ・ビザンツ帝国の勢力圏に沿って交易網が組織された。この交易網は、今述べた地域からイタリア半島と南フランス、ヒスパニアを脱落させていた。やがて、8世紀のイスラム世界の膨張とともに、ヒスパニア、北アフリカ、シリア方面の交易網と地中海航路はイスラム諸王朝が支配することになった。
それ以後、13世紀まで、ビザンツ帝国の版図は、ギリシャ・バルカン半島、ダルマティア、アナトリア、ロマニアに縮小することになった。北イタリア諸都市の冒険商人たちが、したたかにビザンツ帝国の交易拠点や諸都市に入り込んでいったのは、11~12世紀のことだった。
13世紀以降、北イタリアからフランデルンやドイツに向かう通商経路が発達していったことは、すでに見たとおりだ。ジェーノヴァやピーサ、フィレンツェの商人たちは、遅くとも10世紀にはイベリア半島にも進出していた。カタルーニャはもとよりイスラムの諸王国にも入り込んで、諸都市に交易拠点を設立したばかりか、有力君侯の宮廷の財政装置にさえ食い込んでいった。
レコンキスタが進むにつれて、北イタリア商人たちはイベリアでの商業網を拡張し、各地の産業や商業・通貨の交換=金融業を支配するようになっていった。彼らは、北イタリアからマルセイユを経てイベリアの沿岸部に沿って大西洋に到達し、さらに北上して西フランスやイングランド、フランデルンに向かう貿易航路をも開拓した。地中海貿易圏と北西ヨーロッパとは、内陸の交通に先駆けて海運によって結合され、融合しようとしていた。
イタリア商人たちは、北イタリア諸都市で生産された工業製品だけでなく地中海世界で獲得した物産、とりわけ奢侈品を西ヨーロッパ各地に持ち込んで売りさばいた。フランデルンでは上質の毛織物を仕入れて、ヨーロッパ各地やイタリア、そして地中海各地に転売した。もとより、彼らは遠距離の仲介商業、卸売りを担い、商業の上部構造を抑えていた。やがて、内陸路の発達とともにドイツや中央ヨーロッパの商人たちが北イタリアを訪問し、仲介商業の下流部門を分担するようになった。
おりしも、12世紀から16世紀にかけて西ヨーロッパでは、聖俗の貴族と並んで勃興する都市富裕商人層が奢侈品の有力な消費者・購買者になってきていた。彼らのあいだには、すでに消費や購買のブーム(流行)といったものが生じていた。自らの成功と権威を誇り、自己確認するための行為が、そのときどきの購買・消費行動の流行パターンを生みだしたのだ。やがて、都市住民のうち彼らの下に位置する諸階層もそれを模倣した購買・消費行動をとるようになった。
この期間に遠距離商業の組織と技術に大きな変革が生じていた。かつては冒険旅行で商品を調達し、都市や定期市を巡回して歩いていた商人たちが、都市に定着して固定した経営拠点を設けるようになり、この拠店を中心として、両替制度、為替手形や振替などの信用制度をつうじて商品・貨幣の取引と流通を管理するようになった。
大規模化・複雑化し、変化が速くなった取引きを管理し、経営資産の状態の動きを正確に把握するために、文書会計による経営管理手法、とくに複式簿記が採用され、洗練されていった。他方で、街道や河川沿いに設けられた宿駅や伝馬制度、沿岸拠点のあいだに定期航路が組織されるようになるとともに、運送業や海運業・内陸水運が成長し、それを仲介商人が経営・統制するようになっていった。
ヴェネツィアのように、こうした活動を都市国家当局が自ら組織し自国の商人全体の公共財として利用させる場合もあった。フィレンツェでは出身商人たちが共通に利用できる商業郵便制度が発達した。ところが、ジェーノヴァのように徹頭徹尾、私的利害にもとづいて組織し、その利用を身内だけで独占し、同じ都市の商人たちが分派に分かれて利権を奪い合うという場合もあった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第1節
ブリュージュの勃興と戦乱
第2節
アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー
第4章
イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
第5章
イングランド国民国家の形成
第6章
フランスの王権と国家形成
第7章
スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
第8章
中間総括と展望