補章―3 ヨーロッパの地政学的構造
――中世から近代初期
この章の目次
おりしも、それはヨーロッパの都市の成長が始まる頃だった。つまり、ヨーロッパ的規模での交易システムが形成され始め、農村の余剰生産物や各地での特産物生産が著しい成長を見せる頃だった。
この過程に色を添えたのが、ノルマン=デーン諸族の遠征や植民あるいは掠奪まがいの交易活動だった。彼らは数次にわたって波状的にフランス北部に来襲してはいくつかの部族侯国をつくり、勢力圏を広げた。とりわけ9世紀末葉にはノルマンの遠征団がパリを包囲して、フランク王国の実効的な統治能力をもたないカローリング王朝の衰退を早めた。
10世紀はじめには、ノルマンディ一帯に勢力を固めたデーン諸族連合の長にノルマンディ公の称号が与えられた。フランク王室としてはこうすることによって、北フランス一帯での彼らの優位を認め、名目上ではあれ王に臣従する領主として、王国の秩序に組み入れるしかなかったようだ。
この過程で西フランクでは、ノルマン人に対抗するために、重装騎士が軍事力の最有力の担い手となっていった。王は地方の貴族・有力者や家臣に騎士としての軍務奉仕を要求した。騎士は馬や装備、従士などの調達と訓練のために安定した収入が必要だったので、王は貴族や家臣の土地支配=所領統治を認め、そこからの収入で軍備をまかなうようにさせた。これがレーエンの実情だ。
西フランクでの政治的・軍事的状況の変遷については、のちにフランス王国の政治的分裂状態の継続という問題としてあつかう。
農耕地の開拓と村落の形成は、中央ヨーロッパ・ドイツではいくぶん遅く始まったようだ。ドイツ―― Deutchland とは、 teutisch または teutonisch な地方、つまりテュートン諸族の居住する地域という意味だ。
西フランクよりも深い森林におおわれていたドイツでは、森林地帯の奥に開拓を進めた農民自身が武装して村落を防衛することが多かった。しかし、9世紀から始まる騎馬民族マジャール人の進入と紛争から村落や農民開拓地を防衛するために、重装備の騎士とその一団が農村の軍事的防衛と引き換えに、課税権や地代=賦課徴収権を獲得し、領主制支配を確立していった。
だが、領主制が確立し始めた12世紀頃から、優秀な領主騎士層の多くは、十字軍思想に染まった有力君侯たちの遠征熱に引きずられて遠方に赴き、あるいは戦死して、ドイツ本土では激減してしまった。その代わり、地中海東部の沿岸(パレスティナとアナトリア南部)、次いでバルト海東岸にドイツ系騎士団領がいくつも出現した。ゆえに、中央ヨーロッパでは有力領主層による生存闘争と集権化の強度・圧力は、西フランクに比べてはるかに低かったようだ。
ごく少数の有力領主と多数の弱小領主・騎士層があとに残された。このことが、ドイツでは領域国家の形成圧力を小さくし、農民の武装自衛権が存続し、やがて領域国家の統合とか国民国家の形成への動きの速度を著しく押し下げてしまった。とくに北イタリア商人やブルゴーニュ公、オーストリア公あるいはフランス王権の影響がおよぶラインラントやバイエルンでは、弱小領主・騎士層の分立と合従連衡が長く続いた。
ところが、この東フランク――名目上、テュートン諸部族の王国すなわちドイツ王国を構成――はブルグントや北イタリア、ネーデルラント、ボヘミアなどとともに、帝国観念によってきわめて緩やかに結びついた独特の圏域を形成し、やがて「神聖ローマ帝国」という法観念
Verfassungsanschaung に呪縛されていくことになった。ことにドイツでは王権による実体的な統治装置の形成が進まず、伯領というような地方的次元ですら集権化が達成されない諸地域だった。
そのためか、13世紀までは、選挙で帝位を受け継ぐ皇帝たちは、祝祭まがいの行為としてのイタリアへの行軍やローマでの戴冠などという儀式によって権威づけをしようとする傾向が強かった。そこでは15~16世紀になっても、財政が比較的に豊かな有力な領邦君侯でさえ、より強力な家政装置や中央政府を形成しようとする行動をとることはなかったようだ。その後、彼らが領域王権を形成しようとし始めたときには、ヨーロッパでは国家形成にとってより困難な地政学的環境ができあがっていた。
さて、イスラムのヒスパニア征服ののち、8世紀から11世紀まではイベリア半島の圧倒的部分はイスラムが支配する圏域であって、キリスト教勢力は北と東の辺境、つまり西フランクの近隣地域に追いやられていた。そのため、イベリア北部やピレネー方面などの辺境もまた、西フランクの政治的世界に組み込まれていた。そのため、イベリアの北部と北東部のキリスト教君侯・領主層は、イスラムの圧力がまだかなり大きかったがゆえに、政治的・軍事的な関心や行動あるいは法観念においては「フランク王国」と強く結びつくことになったのだ。
レオン、カスティーリャ、ナバーラ、アラゴン、バルセローナ、カタルーニャの諸侯は、自らをフランク王国ないし西フランク王国に属す領主として意識し、そこでの勢力争いに加わっていた。少なくとも13世紀までは、フランスの南部から西部にかけては、イベリアの有力君侯が強い影響力をおよぼしていた。
逆に、イベリアでの軍事的・政治的紛争にフランスの諸侯・領主・騎士たちが介入することもしばしばあった。再征服運動でのイスラム勢力への攻撃にも、多くのフランスの貴族や騎士たちが十字軍あるいは異教徒討伐の名目で参加し、イベリアの諸侯も当然のこととして受け入れていた。
とりわけカタルーニャ、バルセローナの貴族層と都市商人層は、地中海=南フランスと融合した独特の文化圏・商業圏を強く意識していたようだ。そのため、南フランスの諸地方や諸都市は、長らくパリの王権から自立し対抗し続けることになった。有力都市リヨンは、商業的・金融的にこの圏域に身を置き続けて、パリに対抗していた。
政治的・軍事的秩序におけるイベリア北東部とフランスとの密接な結合と緊張関係は、その後もずっと続いた。15世紀末から2世紀以上にわたって、フランス王権とエスパーニャ王権は激しく対立し、王室・宮廷の内紛とか王位や公位、伯位の継承、さらに教皇との関係などをめぐってつねに互いに争い、干渉しあった。16世紀後半のユグノー紛争のなかで崩壊したヴァロワ王権から王位を引き継いだのは、ナバーラ(ナヴァール)王のブルボン家だった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第1節
ブリュージュの勃興と戦乱
第2節
アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー
第4章
イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
第5章
イングランド国民国家の形成
第6章
フランスの王権と国家形成
第7章
スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
第8章
中間総括と展望