1970年代まで、ドイツの社会のいたるところに、敗戦前までナチスとかかわった人びとが残存していた。年配者の大半といってもいいだろう。政財官界の年配者=有力者の多くが、かつてのナチスとのかかわりについて批判されるのを恐れて暮らしていたともいう。
ゆえにまた、1960年代末までは、ドイツでもナチスの暴虐と戦争犯罪の責任追及には、独特のバイアスがかかっていた。公式場面での追及と非公式場面での「及び腰」が混在していた。
政界や財界、司法・警察、行政機関のなかにも、旧ナチス党との関係を疑われるような人びとが多数存在していた。ナチスの支配は系統的で、当時の行政機関や軍、企業、そのほかの団体に党細胞・支部を組織していたから、いやおうなしに多数の人びとがかかわっていたから、まあ仕方のないことではあった。名目上あるいは表向き、ナチスへの忠誠を誓わなければ、抑圧されたり、生存を脅かされる恐れがあったからだ。
こういう人びとのほとんどは、明白な自己批判からは逃げてはいたが、ナチス時代を否定していた。「あれは誤りだった」と。だが、自分の過去の人生を完全に否定しきれるものではない。
ところが、なかにはナチスの存在や思想を美化したり、その再現・再生を密かに望む者もいた。あるいは、郷愁をもって回想する人たちも。
ナチスは、第2次世界戦争の前半期までは、国外から収奪してきた財貨を「帝国に奉仕する労働者」に手厚く分配していた。企業や行政機関、軍などで能力や実績を評価された人びとは優遇されていた。高い給料報酬や高価な配給品などの恩恵を受けていたのだ。
そんな「夢よもう一度」と(ただ漠然と)願う年配者は、けっこう多かったようだ。
とはいえ、積極的にナチスの影響力の温存や拡大に協力しようとしていたわけではない。
それにしても、ナチス批判と責任追及を徹底的に進めれば、社会のいるところで軋轢や齟齬や疑心暗鬼、さらには密告告発合戦を引き起こして、秩序の混乱を引き起こしかねなかった。
1945年から軍事的に西ドイツを占領統治してきた連合軍やアメリカは、こうした混乱が「東側」につけ入る隙を与えるとして、表向きのスローガンとは別に、ナチスの統治・戦争をめぐる責任追及については、積極的ではなかった。
ことは、ベルリンの壁の東側でも、同じだった。
ただし、ドイツが日本と違うのは、公式の制度上は、ナチズムを国家と市民の自らの問題として自己批判し、その影響力の復活拡大を包括的に阻止する制度を組織し、世界に向かって宣言を公表したことだ。まあ、それほどナチスの暴虐は凄まじかったということでもあるが。それなしには、少なくともヨーロッパでは、国際社会への復帰は不可能だった。
これに対して、東西の対決が厳しかった極東の日本では、支配層は甘い考えを続けたまま、ひたすらアメリカへの従属関係にすがりついて国際社会に復帰する道を選んだ。だが、曖昧にしてきた問題のツケが国際関係では残されたままになっているようだ。
この映画の物語は、1963年の初冬から始まる。
だが、冒頭では、1963年秋のイスラエルの南端最前線の様子が描かれる。
エジプト北東部の砂漠地帯からシナイ半島にかけて戦車隊を展開した。戦車隊はイスラエルとの国境をめざして驀進していた。イスラエルへの威嚇と挑発のためだと思われる。イスラエルはこれに対応して、アシュケロンからガザにかけて戦車隊を展開させた(アメリカ陸軍の制式戦車を使って撮影)。
軍事的緩衝地帯の両側で緊張が高まっていた。
そのイスラエル最前線のキャンプで、将軍がスーツ姿の男に何か話していた。
当時、エジプトはイスラエル包囲網を構築するため、また「非同盟運動」を推進する立場からも、「アラブの大義」を掲げて、リビアと国家連合を形成して「アラブ連合」という国名を標榜していた。
イスラエルとの軍事的対抗では、ずっと劣勢に甘んじてきたエジプト=アラブ連合が、なぜ、自信満々の様子でイスラエルを威嚇・挑発したのか。