オデッサ・ファイル 目次
原題と原作について
見どころ
あらすじ
物語の背景
兆   候
エジプト軍のロケット開発
イスラエルの焦り
暗   闘
秘密組織オデッサ
ペーター・ミューラー
SS大尉ロシュマン
戦後ドイツ社会のタブー
オデッサの隠然たる力
師団式典への侵入
探索と追跡
ヴィーゼンタール
ロシュマンとオデッサ
ミサイル誘導装置の開発計画
モ サ ド
オデッサへの潜入
オデッサの監視網
対   決
オデッサ会員のファイル
ブレーメンでの闘争
余   談
カナーリス提督について
「ユダヤ人問題」について

探索と追跡

  オデッサの首脳、グリュックスは、結社のなかで「汚れ仕事(暗殺や暴力)」専門のスタッフを動かして、ペーターを尾行・監視させることにした。隙があれば、暗殺しろ、と命じた。
  クリスマスが近づいたある日、ペーターとーシュマンの追跡調査をもうやめるように求めた。が、ペーターは続けると断言した。そして、これから調査のため旅行に出ると告げた。ジギーは、心配だからいっしょに行くと言い張ったが、ペーターは聞き入れなかった。

  調査旅行のなかで、ペーターは、ナチスの戦争犯罪追及の活動をしているユダヤ人、シーモン・ヴィーゼンタールのことを知った。彼のところに行けば、ロシュマンについての情報を得られるかもしれないと考えた。ペーターは、ヴィーンに向かった。

ヴィーゼンタール

  シーモン・ヴィーゼンタール――と彼が設立した組織――は、第2次世界戦争後、ナチスの戦争犯罪者を追い詰め、訴追するための調査活動をしてきたことで、世界中にその名を知られている。
  彼は1908年、当時、オーストリア=ハンガリー帝国の1地方で、そこそこ富裕なユダヤ人商人の家庭に生まれた。ヴィーゼンタールの詳しい経歴は不明なところもあるが、少なくとも、プラーハの工科大学で建築学の学位を得て、ポーランドのルヴォフで建築家として活躍したというのは確かだ。
  やがて、ナチス政権のドイツとスターリン政権のソヴィエト連邦が、将来の軍事衝突を見越してポーランドを分割した。ヴィーゼンタールの暮らす地方は、ソ連の支配下に入った。そこで、ヴィーゼンタールを含めたユダヤ人は過酷な迫害と抑圧を受けることになった。ヴィーゼンタールも、ソ連内務省人民査察委員会によって、職場や財産を奪われたという。
  まもなく、ナチスがソ連に奇襲を加えて、ポーランドとウクライナを征服し、さらにソ連領土に侵攻した。

  ユダヤ人たちは、今度はナチスの、さらに残酷な迫害と暴力を受けることになった。ユダヤ人ゲットーは攻撃を受け、人びとは捕われ、強制収容所(強制労働キャンプ)に送られた。
  ヴィーゼンタール自身も、ポーランドの2つの収容所を経て、悪名高い強制収容所の1つ、マウトハウゼンに収容された。それでも、何とか解放まで生き延びたヴィーゼンタールは、戦争後、アメリカ軍の要請に応じて、ナチスの戦争犯罪者を追及・訴追するための調査(情報収集)の活動を開始した。

  1947年、彼は30人の有志とともに、オーストリアのリンツに「ユダヤ人資料センター」を設立して、将来の訴追と訴訟のために、ナチスの戦争犯罪に関する事実を調査し、資料を作成した。彼らが作成した資料をもとに、多くのナチスの戦争犯罪者たちが訴追、弾劾され、刑罰を加えられた。
  ところが、アメリカとソ連は、冷戦状況が構造化すると、むしろ旧ナチスの専門家たちを自分たちの陣営の兵器開発のために積極的に利用するようになった。そして、冷戦構造の戦略拠点となる諸国のレジームを維持するために、ナチスやファシストの犯罪の追及には冷淡になっていった。「資料センター」のメンバーも散り散りになっていった。
  しかし、ヴィーゼンタールは、ナチスの戦争犯罪者の追及をやめなかった。

  やがて、国家レジームを強化したイスラエルが、国家の活動として、ユダヤ人に対するナチスの犯罪を究明し、世界中に潜むナチス戦犯たちを狩り立てて捕縛し、イスラエルに連行して訴追し裁判で彼らの戦争犯罪と人道犯罪を糾弾する活動を展開するようになった。有罪となった旧ナチス党員たちは収監され、あるいは処刑された。
  有名なのが、アドルフ・アイヒマンの逮捕と訴追、処刑だ。
  ナチスのSS突撃分団長(中佐に当たるか)、アドルフ・アイヒマンは一般の兵士に紛れて逃亡し、アメリカ軍の捕虜となったが、偽の名前で戦犯追及を巧みにかわし、やがて逃亡した。そして、ヨーロッパ各地を転々と逃げ回ったあげく、――おそらくはナチス残党の秘密組織の援助を得て――ドイツ系イタリア人としてイタリアに移住。そこで、ローマ教会諸団体とのコネクションをつうじて、偽の身分で国際赤十字が発行する旅券を手に入れて、1950年頃アルヘンティーナ(アルジェンティン)に移住した。そこで、エンジニアとしてドイツの多国籍自動車企業に勤務した。

  ローマ教皇庁(ヴァティカン)とナチスやファシストとの親近性や協力関係は、おりに触れて非難・批判を受けてきた。戦後の旧ナチス党員・戦犯の国外逃亡にあたって、冷戦下で親右翼・反左翼の立場の教皇庁や修道会が手を汚したという。アイヒマンの逃亡でも手を貸したらしい。

  ところが1960年頃に、そのエンジニアがかつてのナチス党幹部で戦争犯罪者・人道犯罪者であることがイスラエル政府によって捕捉され情報公開された。その証拠となる情報はモサドが単独で収集したとも、あるいはヴィーゼンタールの功績が大きいとも言われ、実際のところは判然としない。
  1960年にアイヒマンはイスラエル人たちによって捕縛され、イスラエル国内に連行された。おそらくはモサドの特殊部隊による活動と思われる。
  その後、イスラエルで戦争犯罪と人道に対する犯罪を訴因として裁判で裁かれ、有罪となった。63年、絞首刑となった。

  こうした一連の活動について、公式・非公式にヴィーゼンタールは情報提供で協力したといわれている。とはいえ、ヴィーゼンタールとイスラエルの諜報・情報機関とは「アンビヴァレント」な関係だったようだ。モサドはヴィーゼンタールとの協力や連携を、少なくとも表向き、否定していたという。
  両者は、アイヒマン捕縛の功績を競い合うライヴァルだったのかもしれない。

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