イスラエル内閣は、エジプトのロケットミサイル開発・核開発を断固阻止するために、諜報機関に国外での破壊活動を命じた。
1962年9月、ドイツのミュンヘンにある、航空宇宙工学の希少材料を扱う企業の重役、ハインツ・クルーク博士が会社のオフィスから誘拐された。その後、2度と姿を見せることはなかった。
11月には、エジプトの秘密工場で兵器開発を担当しているドイツ人科学者、ヴォルフガング・ピルツ博士の研究室に届いた小包が、それを受け取った秘書の目の前で爆発し、瀕死の重症を負わせた。小包は、博士と関係のあるハンブルクの法律事務所から送られたものだった。
その翌日、やはり秘密の兵器工場で開発に携わるエジプト人エンジニアが、ドイツ・シュトゥットゥガルトの出版社に発注した工学の専門書を受け取ったところ、爆発し、5人が死亡した。
その後も、エジプトで兵器開発に携わるドイツ人科学者や秘密工場に、いくつも小包爆弾や手紙爆弾が配達された。
翌63年、ドイツ国内でエジプト政府のために研究している科学者、ハンス・クラインヴァハターが、深夜、武装した暴漢に銃撃された。その後も、同じような仕事をしているドイツ人たちが、襲われたり、脅迫を受けたりしたという。
さらに、エジプトの政府や企業と取引きしているドイツ企業に対して、融資条件などをめぐって、ドイツ国内銀行や国際金融機関から圧力が加えられた。これらの機関は、経営陣にユダヤ人がいたり、その影響力が強かったりするところだという。
あるいは、軍需・機械関係のドイツ企業(エジプトと取引きがあるところ)が、NATOや連邦軍との取引きで、選別圧力を受けたりした。
こうして、エジプトの軍事技術開発にかかわった科学者や企業、エンジニアたちは、さまざまな威圧や脅迫を受けたため、エジプト政府・企業への強力を断念させられていった。
アデナウアー政権も退陣に追い込まれていった。政権を支えたり、その庇護や黙認を受けていた右翼・保守派の面々もしだいに影響力を切り崩されていった。
この間に、政治や行政、司法、経済などの活動のブラインドサイドで、何やら闘争やら競争、駆け引きがあって、力関係の配置が変化したらしい。
そう、1962~64年にかけて、ドイツ連邦の内外で、ヒトラーの遺臣たち(ナチスの残党)とイスラエルの秘密組織とのあいだで凄まじい暗闘と謀略が展開されたのだ。この物語に描かれるのは、ふとしたきっかけでナチス残党組織のリサーチを手がけたことで、この暗闘(戦争)に巻き込まれた、ドイツ人フリージャーナリストの冒険である。