タウバー夫妻はナチス親衛隊SSのユダヤ人狩りで捕らえられて、リーガ(ラトヴィア)の強制収容所に連行された。所長はSS大尉、エドゥアールト・ロシュマンだった。
ロシュマン大尉はとりわけ冷酷で、虜囚をいたぶってから虐殺する性癖があった。その残虐さは、ときにはドイツ国防軍にさえ向けられた。というのも、SS隊員将校は、まさにヒトラーとナチス党によって選抜されたエリートだという尊大さ(思い上がり)がひときわ強かったからだ。
ナチス体制下の軍制ではSSと略称される組織は2つあった。親衛隊(特別警護隊) Sonderschutz と突撃隊(先鋭兵団) Spitzsoldaten だ。
どちらも残虐さで知られる兵団だが、ナチスの階級制度のもとでは有能優秀な兵士というよりも、上位者に取り入るのがうまい出世主義者の集まりとなったため、権威誇示のためにやたらに過酷・残虐な作戦や手法を取りがちな集団となってしまった。そして、ドイツ帝国国防軍で正規のキャリアで昇進してきた将官や士官たちが、――戦況の悪化で――ヒトラーの近視眼で底の浅い作戦指揮に批判的になると、一般将官・兵士を監視統制する「番犬役」となり、彼らから蛇蝎のごとく嫌われ、恐れられるようになった。
ロシュマンは、リーガからドイツ軍の傷病兵を本国に送還する任務を与えられた輸送船を勝手に乗っ取り、ユダヤ人の搬送に使ったこともある。それを阻止しようとした国防軍大尉を撃ち殺して、船舶の指揮権を奪ったのだ。
だが、根は小心者だったようで、戦況が悪化してくると、部下を放り出して逃亡する算段を練っていた。そして、ソ連軍が迫ってきた1944年、こっそり収容所を抜け出して民間人の車を奪って行方をくらました。その光景を、たまたまサロモン・タウバーが目撃した。
その後、連合軍の占領下で「民主化されたドイツ」では、ナチスの暴虐と戦争犯罪(人道に対する罪科)は時効なしに追及・訴追されることになった。ロシュマンもまた、生死不明のまま、戦争犯罪者の名簿に載せられていた。しかし、戦後はずっとその姿を目撃されたことはなく、死亡したものと推定されていたようだ。
ところが、死の3週間前、タウバーはハンブルクでエドゥアールト・ロシュマンの姿を目撃した。その目撃情報を警察に届け出たが、「確たる証拠がない」という理由で、タウバーの告発は却下された。警察の幹部にも、右翼保守派(ナチスの残党の影響を受けていたと思われる)からの圧力が加えられていたようだ。
「ドイツ国家と国民は、戦前戦中の行為を自己批判し、とくにナチスの戦争犯罪については厳しく追及し続ける」というモットーは、冷戦構造下の政治的力関係によって、往々にして黙殺されていた。
状況を悲観したサロモンは、死を選んだ。彼の手記には、「オデッサの力に破れた」と記されていた。
サロモンの自殺の理由を話してくれたのは、彼の長年の友人で、同じくユダヤ人の老人、マルクスだった。マルクスは、アウシュヴィッツ収容所の生き残りだった。
父を戦争で失い、母に育てられたペーターは、ドイツの過去と戦争については、若者らしい批判精神を持っていた。だから、オデッサの正体を暴き、戦争犯罪者エドゥアールト・ロシュマンの行方を追い求めて記事を作成しようと決心した。