この作品の映像は、砂漠を疾走する戦車隊の場面に続いて、砂漠のイスラエル軍キャンプの場面に移る。
1963年9月23日。ある将軍がモサドの担当責任者に対して、ブリーフィングと任務の指示をおこなっていた。
「エジプト軍のロケットミサイル発射台はすでにイスラエル国内の諸都市に照準を定めている。弾頭には細菌爆弾や猛毒放射性物質(ストロンティウム90)が搭載されている。いまは遠隔無線誘導装置の完成を待っている。目標はハイファ、テルアビヴ、・・・。第2次攻撃はイスラエル全土におよぶだろう。だから、発射されたら、イスラエルはおしまいだ。
この遠隔誘導装置は、ドイツ国内の秘密工場で開発製造が進められている。オデッサという秘密結社が管理している。それを叩け!」
その2月後の11月23日の夜、ハンブルク。
フリーランスのライター、ペーター・ミューラーは報道ネタを探して夜の街を車で走っていた。そのとき、車のラディオが臨時ニュースを伝えてきた。
「合州国テクサス州ダラスで、大統領ジョン・F・ケネディが狙撃を受けて重態に陥った模様・・・。病院で手当てを受けてきましたが、死亡が確認されました。・・・」
アメリカの政治は血なまぐさい暴力を帯びてきた。そして、ヴェトナムでの戦況はもはや挽回不可能なほど悪化していた。
ケネディ暗殺事件のニュウズを詳しく聞こうと道路の片隅に車を寄せた。すると、その横を警察車両に誘導された救急車が駆け抜けていった。事件匂いを嗅ぎつけたペーターは2台の後を追いかけた。
警察車と救急車はあるアパートの前で止まった。老人のガス自殺らしい。救急隊員が、住居の部屋から老人の遺体を車に積み込んだ。そのあとから、死亡時の状況を調べた刑事が出てきた。親しい知り合いの刑事、カールだった。
翌日、カール刑事といっしょに昼食をとったペーターは、自殺した老人が残した日記や書類の束を渡された。友人思いの刑事は、ルポルタージュのための取材調査の材料になると思ったらしい。
自宅に帰ったペーターは、自殺した老人、サロモン・タウバーの手記を読みふけった。深刻な内容の手記だった。苦悩の人生とナチスに対する告発が記録されていた。
老人はユダヤ人で、戦争中、妻とともにナチスの強制収容所に捕われて、妻を殺された。老人自身はエンジニアだったことから、処刑を免れ、強制労働に回された。そして、解放までかろうじて生き延びた。
1941年からドイツの敗北まで、各地の強制収容所に送られたユダヤ人はおよそ20万人。そのうち、解放時まで生存することができたのは400人に過ぎない という。サロモンは、その数少ない生存者の1人だった。