ところが、連合軍の内部ではノルマンディ上陸侵攻に向けての作戦構想は、1942年から44年春にかけて、その担い手の交代とともにいくども練り直され、修正され、発展していきました。
言い換えれば、大きな壁に何度もぶつかったのです。
構想の大枠は、連合軍指揮監部最高参謀局によって、43年春からようやく形をとり始めます。翌44年1月、連合諸国ヨーロッパ派遣軍最高司令部のなかでアイゼンハウアー将軍の指揮のもとで作戦の個別事項が検討されていきます。
作戦が実行可能な案として具体化するのは、1944年4月です。決行のわずか2か月前でした。
それでも、ノルマンディからのヨーロッパ侵攻に必要な兵員や兵器、軍需物資の動員・調達は、作戦の検討と並行して進められていました。
1944年はじめから、合州国から出航した大規模な輸送船団が大西洋を横断してブリテン諸港に向かっていきました。
多数の兵員、戦車、大砲と弾薬、軍用車両、重機、工作機械、軍用機、多種多様な補給部品が、次から次へとブリテンに陸揚げされました。兵員と兵器、軍用機械・車両は各地で集結され、大隊、連隊、旅団、師団へと編成されました。
それらは、隊列を整えると、イングランド南部の出撃基地、待機陣地へと向かいました。ドーヴァー方面に向かうブリテンの主要道路は、アメリカ軍の兵と車両の列で満ちるようになったということです。
ポーツマス、サウザンプトン、プリマスなど英仏海峡の港湾地帯には、夥しい数の連合軍キャンプ(野営地)が設営され、出撃を待っていました。
軍事機密や作戦情報の漏洩防止のために、これらのキャンプは外界と完全に遮断されていました。
連合軍が44年初夏以降、北フランスへの上陸侵攻を開始する計画に関する情報は、諜報活動や連絡員捕縛などによってドイツ軍にも伝わっていました。
問題は、いつ、どこで、でした。
連合軍の立場に立てば、ブリテン南部の飛行場からの空輸や戦闘機・爆撃機による援護の射程範囲、つまり制空圏域の範囲内に上陸地点は収まらなければならない。ゆえに、カレーかノルマンディかのいずれかになるだろうということです。
距離的にはカレーがブリテンから最も近く、上陸後には、ルール・ラインラントなどドイツの心臓部への最短距離での侵入経路となります。
しかし、そこはフランス大西洋岸でドイツ軍の防備と軍事力の配備が最も厚い地点でもあります。
ここに突入すれば、当然、連合軍の被害は甚大になるでしょう。
しかし、ノルマンディは、連合軍の制空圏域の限界ぎりぎりのところにあって、援護が難しいでしょう。