映画では、激烈で凄惨な戦闘場面が描かれます。
連合軍の航空団と艦隊による援護を受けて、5つの海岸への上陸突入が始まりました。
海岸の丘陵や高台に迎撃陣地やトーチカを構築したドイツ軍は、いわば管制高地を確保していました。
浜辺に上陸した連合軍兵士たちは、舟艇から降りる瞬間から集中砲火を浴び、狙い撃ちにされたのです。とはいえ、皮肉にも、ドイツ軍が敷設した障害物が連合軍兵士の弾除けになったようです。
最大の死傷者が出たのはオマハ海岸で、D−Day1日だけで2,400名にのぼったということです。次はジューノ海岸でした。
連合軍は波状的に上陸用舟艇による突入上陸を敢行しました。さらに大型揚陸艦による大砲や重機、車両、また水陸両用戦車による上陸突入も試みられました。
結局、この日夕刻までに、5つの海岸から15万の兵員が上陸を達成しました。死傷者は3,000だったといいます。
オマハの段丘突破とオック岬の崖登り攻撃では、爆破や懸垂工作の途上で死傷した工兵隊員は、総員の約半数ないし60%にのぼったといわれています。
映画では、工兵連隊の士官の全員と軍曹の大半が死傷し、若い軍曹だけが指揮にあたっている光景が描かれています。海岸段丘や海蝕台の崖を登るための経路を切り開くために、ほぼ全滅した小隊がいくつもあったようです。
兵員や兵器、機械、軍事物資の上陸をめぐる激しい戦闘はそれから3日間続きました。その間に、総勢63万の兵と9,500両の軍用車両、27万トンの物資が上陸しました。
そして、「マルベリー・ハーバー」という、連結した多数の廃船を土台にして海上に浮かぶ揚陸用埠頭・倉庫が2基(ブリテン軍とアメリカ軍によるもの各1基)建設されました。
ところが、ドーヴァーを吹き荒れた嵐は、まもなくアメリカ軍のマルベリーを大破させてしまいました。
オーヴァーロード作戦は公式上、8月17日に完了しました。
けれども、状況の変化で、連合軍はドイツの心臓部への攻撃を少し後回しにしなければならなくなってしまいました。
連合軍司令部の方針に逆らって、パリの抵抗組織が蜂起を開始したのです。
しかも、敗戦続きで精神に異常をきたしたヒトラーの命令で、ドイツ軍がパリの占領を持続不可能と見たときには、最後の手段として、パリの全面的破壊・焦土作戦を実行するような形勢になったのです。
そのため、この大作戦の実質的な完了は、大量の戦略物資と兵員を投入するしかないパリ解放をおこなったのち、すなわち8月末になってしまいました。
これについては、別の映画作品(《パリは燃えているか》)の考察の機会に瞥見する予定です。