ところで、東部戦線でのソ連の反攻進撃に呼応した連合軍による「第2戦線」の構築をめぐっては、合州国とブリテンとのあいだに意見の相違がありました。
チャーチルは、第2戦線を地中海からバルカン半島・南ヨーロッパにいたる地域構築してバルカン(ギリシャ)上陸後、ウィーンに向かって侵攻する構想を描いていました。
大きな理由が2つありました。
1つ目は、反攻作戦にさいして、ブリテン諸島からできるかぎり遠い地点に激戦の最前線を設定したいというもくろみです。
2つ目は、連合軍がバルカン半島からブルガリア、ハンガリア、ルーマニアへと攻め上ることで、東欧ないし東南欧へのソ連軍の侵入と影響力の拡大を抑制しようとする意図です。
ブリテンにとっては、さらに付随的な理由があったと思われます。
つまり、世界覇権の大部分を失ったブリテンではあったのですが、なお地中海での制海権を再構築し、かつ中近東および東地中海での優位(つまり油田地帯の権益とインド洋への連絡路)を維持したいという願望です。
バルカンと地中海東部の解放を先行させることによって、ブリテンはこの地域一帯での影響力と権益をいち早く再構築できると見込んでいたのです。
これに対して、ルーズヴェルトとアメリカ軍は、大西洋側から上陸侵攻して、ヨーロッパの中枢である北西部(北フランス、ベルギーを含むネーデルラント)を解放しながら、ドイツ心臓部への最短距離で侵攻するルートを検討していました。
この戦略の視点からすると、バルカンからの北上路線は、ドイツの心臓部およびベルリンまでの距離が遠すぎます。
そのため、西ヨーロッパの大西洋岸=中枢部の解放までにきわめて長い期間がかかります。その間、ドイツに西ヨーロッパの大工業地帯(パリからルール・ライン地方にかけて)への支配権の持続を許すことになります。
加えて、V1およびV2号ロケットの発射基地と開発拠点が温存されることになってしまうのです。
結局、連合軍の力関係におけるアメリカの優越によって、フランス北部に上陸・侵攻し、ネーデルラント、ラインラントを通過・解放してドイツの心臓部に迫る方針が採用されました。
ヨーロッパ北西部の海洋と空でも、戦局の転換が始まっていました。
1942年末には、ドイツ海軍としては、北海と北大西洋での優位を得る見込みはすっかり潰えていました。バルト海でも急速に制海権を奪われていきました。
42年末、冬季にドイツは北大西洋でUボートによる攻撃作戦を開始しました。が、それは、ドイツ艦隊による連合軍艦隊の打撃がますます困難になり、連合諸国への通商破壊の成果がきわめて乏しくなったことの証左でしかありません。
同じ地域の上空でもドイツは優位を喪失していました。
その結果は、連合諸国空軍による北ドイツ諸都市、そしてルール・ラインラントへの激しい空爆でした。
1943年8月にはハンブルクが壊滅しました。北ドイツの軍港や造船ドック、艦隊の補給基地は次々に破壊されていきました。