突入部隊の上陸行動に先立って空軍の攻撃が始まりました。
爆撃機と戦闘機は、ドイツ軍の防御施設はもとより、兵站施設、道路、橋、鉄道、送電設備をいたるところで破壊して、内陸からの補給線を寸断しました。
これに、フランスのレジスタンスも呼応し、通信施設や輸送網を破壊ましした。
海上では戦艦や巡洋艦、駆逐艦の主砲、大口径砲による攻撃が始まりました。艦砲射撃による弾幕が、ドイツの海岸陣地を襲っていきます。
これらの第1波攻撃は、警戒態勢を解除して準備が遅れたドイツ軍の防御力の一部を破壊しました。
けれども、ドイツ軍の防備も厚く、大口径の長距離砲や列車砲によって連合軍艦隊に反撃しました。
しかしこのとき、東部戦線や地中海戦線で大きな打撃を被ったこともあって、ドイツ軍の指揮系統はあちらこちらで弛緩していました。そのため、的確な戦況判断や迅速な軍の移動や配備ができなくなっていたのです。
あまりにも、ヒトラーや総参謀本部に権限が集中し、各戦線での個別状況に応じた兵員や兵器の移動・増強や相互支援ができない構造になっていたのです。
各軍団の司令官は、たとえば機甲師団・旅団の来援の要請をもラステンブルクの指揮と了解を仰がなければならなりません。
それには、長い時間がかかり、決裁が出たときにはすでに手の施しようがないほど戦況が悪化している場合も多かったのです。
本部の将官たちはヒトラーの顔色をうかがい、判断を仰ぐのに汲々としていて、自立した軍人=指揮官としての判断や責任の行使を恐れていました。
D-Dayの場合も、ドイツ軍では飛行隊や戦車隊の支援体制はついに樹立されなかったのです。
さらに悲惨なことに、ヒトラーはすでにこのとき、精神の平衡が崩れ始めていたようです。およそまともな命令を出せなくなっていたようです。ところが、ドイツ軍のほとんど将官は、家族をナチスによって人質に取られていたことから、軍総参謀本部の無謀な指示にしたがうしかなかったのです。