利己の欲望を抑制して公共の利益を優先する利他的な心性は、人類という生物種が総体として生き延びるための最後の砦だ。しかし残念ながら、この心性がはたらくことは、相互に利害闘争を繰り広げるこの世界ではめったにない。
温暖化や環境破壊という地球環境の危機にさいしてすら、多くの諸国家は自らの国益にこだわって状況を悪化させている。戦乱も絶えない。というのも、国家や企業のトップに居座る権力者たちは徹底的に利己的な情け容赦のない競争を勝ち抜いてその地位に上りつめたから、利他的な発想・行動スタイルが欠如した輩となっているからだろう。
他者の痛みを切に感じる心を持っていては、非情の権力闘争を勝ち抜けないのだ。かくして、大きな組織の権力者は「生物種としては無能」になり果てる。この世は黙示録のごとくになる。
しかし、これまで人類がここまで生き延びてきたのは、どこかでコミュニティや社会総体の公共の利益=福祉を配慮する叡智がはたらいたからだろう。
この映画は、藩が管理する街道宿場町が年貢として自己負担で営むしかない伝馬役業務のために破綻寸前まで追い詰められたのだが、宿場町全体の公共利益を優先しようとする人びとがどうにかコミュニティを生き延ばそうと算段する努力をコミカルに描いた物語だ。江戸時代の日本にも、資本主義的経営様式の成長にともなって独特の市民社会は存在し、ユニークな仕方で成長していったということなのだろう。心の栄養になる物語だ。
ところで、自己の利害と社会的利益ないし公共の利益は対立的なものと考えられがちだが、社会的=公共的利害とは長期的に見た場合の自己利害であって、長期的な経営環境ないしは生存環境の保全・改善を意味することになる。利己とは短期的な自己保存欲求で、それが強すぎるということは《総体としての経営環境・生存環境》への無配慮を意味し、それゆえまた、その長期的な帰結は《自他ともどもの滅亡》となる。
世界の経済や政治のスーパーエリートたちは、現在の富と権力の争奪競争がもはや地球環境が許容しうる限界を超えていることを知りながら、この争奪戦を止める気配がない。
だからたとえば、世界経済における金融資本の圧倒的な優越やUSAでのトランプ政権の登場は「人類滅亡への予兆」なのかもしれない。滅びへの道は不可逆的に始まってしまったのかもしれない。だが私は端然と構え、矜持を持ったまま滅びたいものだと願う。
原作は、気鋭の歴史家、磯田道史の『無私の日本人』所収の「穀田屋十三郎」(文春文庫、2015年刊)。したがって、この映像物語は原作と比べてかなり脚色されているが、史実にもとづいたものだ。
歴史家、磯田は歴史のなかに個々の家門や商家の生き残り戦略・戦術からはじまって社会全体の生き延びる能力がいかに発揮されたのかについて、鋭い洞察を示している。
磯田が発掘した史料『国恩記』(栄洲瑞芝著)をもとにして、彼が描き出したのは、1760年代後半の仙台藩領、奥州街道沿いの宿駅、吉岡宿で実際にあった出来事だ。日本における近代初期の「公共性 Öffentlichkeit 」の形成史をわかりやすく描いたものといってもよい。
私見によれば、日本の江戸期享保時代までには経済構造では資本主義的再生産体系が優越するようになっていた。だが政治的=軍事的権力すなわち統治構造は幕藩体制で、徳川家を頂点とする武士身分が経済的剰余の分配を決定していた。
ことに街道物流の代金=価格制度に関する統制は、経済と流通の実情から恐ろしく遊離したもので、18世紀半ばを過ぎると、街道宿駅制度による継立てサーヴィスの運営では大きな欠損と財政不均衡が深刻化した。
だが、信州の中山道の多くの宿駅のように多くが幕府直轄領や旗本領のように幕府などからの財政的助成があったところと比べて、この物語の舞台、仙台藩領の奥州街道吉岡宿は、藩による無慈悲な統制がまかり通っていて、いっそう悲惨だったようだ。
継立て伝馬を担う吉岡集落は、無償の輸送サーヴィスを強いられた上に、藩の補助はまったくない。毟られっぱなしの搾取と収奪にさらされていたようだ。
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