ところが、実の弟である浅野屋甚内が2口分1000貫文を拠出するということを菅原屋から聞かされた穀田屋十三郎は血相を変えた。彼は弟に対して相当に強い劣等感 inferiority-complex を抱いていたのだ。
十三郎は少年時代に、長男であるにもかかわらず、跡継ぎがない親戚の造り酒屋「穀田屋」に養子に出された。その理由について彼自身は、自分が浅野屋を継ぐに足る資質や能力をもっていないからだ、と思っているのだ。父親の甚内は、兄よりも弟の資質と能力を高く評価して跡継ぎにし、兄の自分を養子に出したのだ、と。
十三郎が7歳の頃、父親は兄弟に『論語』や陽明学の書『冥加訓』などを読んで聞かせていたらしい。座敷に幼い兄弟は正座させられ、父が読む『論語』を聞き、その解説を受けた。十三郎には漢文読み下し調(訓読)の話がチンプンカンプンでさっぱりわからない。わからないから、すぐに嫌になって、座敷から庭に出て土いじりや虫遊びをしていた。
ところが、まだ5歳だが才気聡明な弟は正座を崩さすに父の訓読を聞き、すぐに理解していたようだ――父の地を継いで、とんでもない秀才だったのだ。弟はまさに目から鼻に抜けるように賢い子供で、長じてからも商いの才覚は抜群だった。浅野屋の身代をさらに大きく伸ばしたのだ。
劣等感と対抗意識から、穀田屋を継いだ十三郎は刻苦精励して家業の土台を建て直し、創意工夫を重ねて穀田屋の身代を倍増させ、吉岡宿でも有数の大店旦那衆の仲間入りを果たした。だが、もともと身代の大きい浅野屋と比べれば、かなり小さい。
彼は地方の街道宿駅の商人としては立派に成功したのだが、コンプレックスを解消するほどにはなっていない。
そんなところに、今回の企図に関して、弟の浅野屋甚内は自分の倍の2口、1000貫文を拠出すると言い出したのだ。資金集めにおける貢献度と存在感は圧倒的だ。
「浅野屋甚内が1000貫文出すというのですか。まるで、実の兄の私への当てつけのようではありませんか。それでは私の立場がない。
それでは、私はこの話から降ろさせていただきます」とつむじを曲げてしまった。
「何ですって!?
それじゃあ穀田屋さんは、弟の浅野屋さんへに見せつけるためにこの話を進めてきたんですか。
穀田屋さんは、ご実家の浅野屋さんのことに絡むと変に意固地になる。困ったもんですね」
十三郎が吉岡宿存続のために自己犠牲を自ら買って出て資金づくりを率先したのには、じつは実家に対する複雑な心情も絡んでいた。重三郎の目から見て、町の行事にともなうる資金の拠出や寺の寄進については、浅野屋甚内は父子ともに協力的ではない。寄付や寄進はほとんどしたことがなく、その代わりに節約に節約を重ねて小銭を甕に蓄えている。
そういう姿を見て十三郎は、自分はそういう父弟とは違う。町や住民のために惜しみなく配慮しようとしてきた。であるがゆえに、今回の資金集めをリードしてきた。別に名を売るためではない。
「では、私が出した500貫文はそのままにしておいてください。ですが、今回のことについて今後私の名は一切出さないようにしてください」
とは言ったものの、責任感の強い十三郎は、その後も運動を率いることになったようだ。
ともあれ、こうして運動の輪は広がり拠出金も総額も増えたが、安藤寿内が出資を降りると言い出したので、4500貫文となったまま、足踏み状態となった。
あと1000貫文どうするか、運動の同志たちが額を寄せ合って悩んでいるとき、出資から降りると言った寿内が「いやあ、考えを改めまして、やはり出させていただく。
ただし、みなさんと一律にして500貫文を出すことにします」と言って復帰してきた。
その理由は、やはり馬方たちと同じような「体面」だった。
前日、寿内は宿の菩提寺、竜泉院に寄進をするために住職の栄洲瑞芝と話をした。瑞芝は原作の原史料となった『国恩記』の著者だ。
瑞芝は寿内の寄進にいたく願激してこう話した。
「これはご丁寧にありがとうございます。いやあ、寿内さんはこの利岡宿を救おうとしてお上に貸し上げるための大金も出されたとか。そのうえに、このように寺にまでご配慮いただき、まことに尊敬すべきお方だ。
感涙で身どもの墨染めの衣も濡れようというものです。
このたびの出来事を書に記して、吉岡宿を救おうとしたその功績を子々孫々まで語り伝えようと思います」
資金を拠出すれば、自分の家の名声と徳績が後代まで語り伝えられるというのだ。逆に拠出しなければ、富裕な商家なのに吝嗇と貶せられることになる。
というしだいで、寿内は吉岡宿を救うであろう企ての一翼を占める意義の大きさ、「体面」の保持にとっての重要さを意識して、資金拠出の同志に復帰したのだ。
ただし、儲け話ではないので、しっかり算盤をはじいて拠出金は1000貫文から500貫文に引き下げたのだが。これでついに5000貫文が達成された。