煮売り屋「しま屋」は不思議な場所だ。そこには、宿場の貧しい馬子(伝馬人足)も金持ちの遠藤寿内もやって来ては、酒で憂さを晴らしたり、業界仲間から情報を仕入れたりする。菅原屋篤平治と穀田屋十三郎は先日ここで、1000両を集めて藩に貸し付け利息を受け取り、それを伝馬役の費用負担に回すという構想を話し合った。
店を切り盛りするときは、客たちに酒や煮物などの肴を給仕しながら、店のなかで交わされる会話を聞いている。してみれば、ときは宿場町一番の情報通ということになる。だが、彼女はいたって素朴純朴で、裏表がない。人の腹や裏を探ることもない。
駆け引きや打算がない分、彼女が仕入れた情報は彼女の気持ちしだいで誰彼区別なく流れ出ていく。つまり、煮売り屋「しま屋」は情報の集積地でもあれば「駄々洩れ」発信源でもあるわけで、ありていに言えば「情報の漏洩場所」でもある。
さて、ときはそれとも意図せずに仕入れた情報と最近の町の動きを見て、私欲を打ち捨てて町の存続のために家財一切合切を質入れして資金集めに奔走している穀田屋や菅原屋、肝煎たちの行動を深く尊敬するようになっている。近頃では実に感動的な話だと。
てなわけで、ちょっぴり酒が入ったりして興が乗れば――つまり「ざっかけない」庶民どうしの世間話のなかで――尊敬すべき穀田屋たちの運動を吹聴することになる。
「ねえねえ、肝煎や穀田屋さんや菅原屋さんたちは偉いのよ。身銭を切ってお金を集めて藩に差し上げてこの宿を救おうとしているのよ。自分たちには一銭にもならないのに……」という具合に始まって、出資の仲間、大肝煎や穀田屋十兵衛の名をあげていく、
「本当に偉えなあ。だがよ、それはみんな中町の旦那衆じゃあないか。やっぱり、中町の旦那衆は偉えなあ。さすがおらたちの中町だ。中町はいい!」と自部の住む町の自慢に結びつけたのは、かなり酒が回った伝馬人足の卯兵衛と伝五郎だ。
だが、一緒に飲んでいた下町の利兵衛や上町の小右衛門や平八はちょっぴり肩身が狭くなった。
伝馬役の馬方人足を生業としている彼らは、秣や飼葉など業務用の動産である馬を健康に維持する費用を自らのわずかな稼ぎからまかなっている。彼らは所得が少ないから担税能力はない。年貢貢納とか納税とかすることはできず、むしろ肝煎が集めた町の収入から伝馬の駄賃として何がしかの銭を分配してもらっている。その駄賃によって何とか馬を飼うことができるのだ。
その駄賃を支払うために肝煎りたちが日夜四苦八苦しているさまを見ている。そしてこのたび、伝馬の費用負担をまかなうために肝煎や穀田屋菅原屋たちが、甚大な自己犠牲を払って藩意に貸与する資金を調達していることを知った。つまり、穀田屋や菅原屋、そして肝煎りたちが、伝馬人足たちが今後も馬を飼い荷役運搬業務を続けることができるように慮っているということだ。
要するに、中町の主だった商人たちが、彼らのために無私の努力を払っている。そのことは、まさに涙が出るほどにうれしく、ありがたかった。
では、自分たちは彼らを支援するために何ができるだろうか。いや、貧しい彼らが金を出すことは不可能だ。だが、このさい何かしなければならない。こうして、下層民のあだいにも穀田屋たちの運動への連帯意識が生まれていった。
その結果、彼らが考え出し選択した行動は、自分たちの町(街区)のそこそこ富裕な商人旦那衆に訴え、資金供出に参加してもらうように働きかけることしかない。彼らはじつに狭い見識と世界観の限界内でだが、連帯して動き始めた。
それは、穀田屋たちが、お上=藩に対してまことに大それた企てであるがゆえに秘密裏に資金調達しようとしている立場からすると、一般民衆のあいだにまでその企ての情報が洩れてしまったという点では、「はた迷惑」な動きではあった。
しかし社会学的・社会史的に見ると、町の特権的な富裕商人層が始めた宿場の存続運動が、ひょんなきっかけから下層民衆が参加する社会運動にまで発展したという状況を意味する。客観的に見るとこの運動は、たしかに仙台藩の酷薄無情な統治政策に自然発生的で素朴な不満や批判から始まったものだ。
とはいえ、彼らは仙台藩の統治権力の正統性をみじんも疑っていない。藩の統治政策全般を変革しようなどとは考えてもいない。ただ自分たちが住む吉岡宿が今後もどうにか立ち行くようにしたいというローカルな要求を実現しようとしているだけだ。
しかも、藩侯と家臣たち武士身分の権力に従属する自らの立場を変えようというのでもない。その要求を表明するために藩と力の対決を試みるわけでもない。まず自分たちの側からとてつもなく大きな自己犠牲を払って1000両の資金を集めてそれを藩に貸し与えて藩の恩顧を願出て、利息を受け取り伝馬役の費用をまかないたい、それだけだ。
その伝馬役はといえば、藩の命令でその押しつけられた役割で、その任務を続けるためにこんな自己犠牲を払うのだ。
現在の私たちから見ると、途方もなくお人好しで善良で、卑屈なくらい――馬鹿げていると言えるほど――に謙虚な態度ではないか。しかし、権力を持たない――したがって権力闘争を挑むことはまったく不可能な状況にあって――彼らが生き延びるためには、それは最善の生き残り戦略かもしれない。