資金集めを始めてから6年目となり、とにもかくにもようやく目標の5000貫文に資金が集まったが、企図の同志も9人に増えた分、それだけ内部の対立や違和感も目立ってきた。たとえば遠藤寿内は、拠出金が少なかった者に対して「貢献度が少ない」という当てこすりをにおわせた。
また、彼らが吉岡宿を救おうとして私財を投げ打って大金を拠出したことが住民全体に知られたことから尊敬を集めチヤホヤされる雰囲気も出てきた。やはり何ごとにも自らの優位を示したいのは人情だろうから。
そういう雰囲気を危惧した千坂仲内は、同志となって銭を出した商人たちに徹底的に謙虚さと慎みを求め、資金を拠出したことを口外しないこと、子々孫々にいたるまで出資を自慢せず、多数者の集まりでは上座に座らないこと、道の端を腰を低くして歩くこと、慎ましい生活を送ることなどを誓わせ、その約定を記した書面に同志たちに署名させて連判状とした。
これまで吉岡宿を指導する立場の富裕商人として振る舞ってきた寿内などは、まさに「体面」を守るために同志に復帰したくらいだか、この約定について口惜し気な素振りを見せたが、結局受け入れることにしたようだ。
大肝煎の仲内が上記のような懸念を持ち出して慎ましさを求めたのは、藩に大金を差し出して利息を受け取るというような訴願は、見方によっては藩の統治に対する誹りとも受け取られかねないので、同志首謀者たちの態度に浮ついた気持ちや尊大な名誉欲が出てはならないと判断したからだ。
さて、いよいよ藩に対して貸与金を差し出して利息を受けたい――その目的は私利ではなく宿駅の伝馬役費用に充てたい――という要望を嘆願する局面になった。知恵者の菅原屋を中心に藩庁を説得する案文を考えて書状にしたためた。
ところで、この嘆願書の内容について、平八は住民を集めて読み聞かせてほしいと願い出た。その時代、識字率が半分ほどだったからだ。仲内たちは、吉岡宿の住民の総意にもとづく訴願として嘆願書を提出するためには、その方が好ましいということで、二十三夜の宵の集まりでおこなうことにした。
というのは、藩庁は村や町の住民が集会をおこなうことを極端に警戒し総じて禁じていたからだ。それが住民の政治集会になって、藩統治に対する批判や不満を表明する場になることを恐れていたのだ。だが、寺社の祭事や村祭りに人びとが集まり親交を深めることについては禁じられていなかった。
「二十三夜待ち」の宵越しは、住民が近隣の寺社に集まって二十三夜の宵月を待ち、夜明けまで祈願のおこもりをする宗教的な慣習だったので、お上から睨まれることはなかったのだ。住民たちはそういう機会に住民どうしの意思疎通やら要望の取りまとめをしてきたのだろう。
映画の状況設定では、この嘆願状を藩のしかるべき機関に差し出すことができるのは、黒川郡の大肝煎の千坂仲内だけだ。武士の行政機関に対して意見や訴願を申し出る資格もまた、身分秩序によって厳格に規制されていたということだ。原作では、穀田屋十三郎たち一行が代官所を訪れたと記されている。
仲内は黒川郡の代官所に出向いて訴願の趣旨を述べてから嘆願書を代官、八島伝之助に提出した。嘆願書を読んだ八島は顔色を変えて――面倒な要望が出されたものだと逃げを打ちたくなって――返答した。
「まずは差し置くから、願いは同役の橋本権右衛門(堀部 圭亮)に相談せよ」とたらい回しの芸に出た。門前払いをするのも憚られるし、受理して上役に差し出すのも面倒なうえに、どう評価されるか恐ろしい、というわけだ。
幕藩体制も150年も続いたこの時代、武士役人たちは「事なかれ主義の官僚主義」に埋没していたのだ。責任回避のためにあらゆる手を尽くして、問題があやふやのうちに責任の所在をわからなくしてしまう、というわけだ。
そもそも郡内に代官が2人もいるのは、藩の統治行政に関しては武士身分の人員過剰が生じていからだ。ひとつの役に2人の武士を配置して月代わりの当番制にし、責任の所在をさらに曖昧にしにようというのだ。大勢の役人たちに書類が回され、藩を押しているうちに問題を解決するタイミングは失われる場合が多かっただろう。武士の人員が過剰でも、住民の要望集約や民生向上には絶対に人員を回さないというのが、幕藩体制の掟だったようだ。
ところが、橋本権右衛門がいる代官所は詳しい山坂を越えた南里も離れた中新田という場所にあった。原作では、仲内と肝煎、菅原屋が馬で行くことになっているが、映画では仲内が単独で徒歩で代官所に旅をした。
とはいえ、橋本代官は百姓想いの熱血漢だった。嘆願状を読み終えるなり深く感動し、仲内らの行動を称賛し、「これは古今きいたことがない願い出じゃ。わしが必ずよろしく計らうよう上に申し上げる」と約束した。そして、仲内を歓待するためにしばらく引き留めて酒の席を設けた。