カール・マルクスはその著『資本』のなかで、利子生み資本の全社会的規模での現象と展開をもって近代資本主義的経済の成立の最も本質的な指標としている。江戸時代に、そういう事象が存在した。そして、この物語では破綻の危機に瀕した街の有力商人と村役たちが何とか1000両の貨幣資本をかき集めて藩に貸し付けてその利子収入を獲得しようと奮闘する。
奥州街道の吉岡宿は、ほかの宿場町と同じように、自分たちの前の宿場から次の宿場まで馬を用立てて公用の貨客の輸送継立てすることを年貢=納税として無償でおこなうことを義務づけられている。幕府が指定した五街道では通常、この輸送サーヴィスを担って宿駅がまかないきれない赤字欠損が出た場合には、幕府直轄領の宿場の場合には、年次の財政収支報告の提出と引き換えに、財政補填のための助成を受けられるようになっていた。
宿駅の街が藩領である場合には、藩からこういう助成がおこなわれたらしい。木曾路の11宿駅は幕府領から尾張藩領に移管されたが、村山代官所を通じて幕府の道中奉行に財政報告が上げられ、幕府から助成金が出るようになっていた。しかし、19世紀半ばになると、赤字の全部は補填してもらえなくなったため、本陣が自腹を切っていたという。
ところが吉岡宿は、藩の直轄領ではなく藩重臣の所領であるという理由でまったく助成を受けられず、赤字欠損を集落で負担するしかなく、そのため過重な負担つまり累積赤字を抱え込むしかなかった。
その負担は街集落の住民が分担して背負い込むしかなく、負債を背負いきれなくなった住民たちは一軒、また一軒と破産し、あるいは町から夜逃げしていった。こうして、櫛の歯が抜けたように街のあちこちに廃屋や空き地が生じることになった。
この状況を憂いた街の有力商人たちは、利子を毟られる側から受け取る側に立ち、その利子を伝馬役負担の費用に回して街を生き延びさせようと企図した。
「このままでは年貢諸役を毟り取られるだけだ。武士たちにしゃぶりつくされて滅亡する。何とか、民草のわれわれがお上(藩侯)から利子を取るようにしようではないか」というわけだ。
これは財政収取の構造から見れば、一種の小さな革命だ。もちろん、本人たちは藩への資金面での奉仕の見返りとして小さな余禄を受け取りたいというだけで、革命などは露ほども考えていない。むしろ、藩への伝馬年貢納入をおこなうためにこそ利子を取りたいのだ。
有力商人たちは、祖先して自己犠牲を払い、自らの資産や家財を抵当にして借財し貸付資金を調達しようとする涙ぐましい物語だ。
穀田屋十三郎はじつにきまじめ実直な変わり者だ。重い伝馬役負担のために住民人口が減っていく宿場町の将来を心底心配している。
あるとき茶師の――茶の生産と卸販売を生業としている――菅原屋篤平治に悩みを打ち明けた。すると、はずみで篤平治は「1500両くらいの金を集めて藩に貸し付ければ、その利子収入で年貢諸役の費用をまかなうことができる」とアイディアを示した。
もちろん、単に空想あるいは理屈の上だけの方策にすぎなかった。だが、十三郎は本気でこの企図にのめり込み、ほかの町の有力商人や肝煎り(名主・庄屋に当たる)、さらには大肝煎り(郡の総庄屋)を巻き込んで、町全体の運動になっていく。
彼らは資産や家財を抵当に入れて(売り払って)一人頭500貫文の拠出割り当てで資金を調達したが、最低の目標である1000両にもなかなか届かない。
ところが、彼らの自己犠牲は町の飲み屋の女将の口からもれて、貧しい住民(馬方=伝馬役)の耳に届いた。彼らは感動して、自らの居住区の金持ち商人たちを説得して資金を拠出させようと動き出した。
その話を高利の儲け話と勘違いした因業な両替屋(貸金業)、遠藤寿内は2口分の1000貫文の拠出を申し出た。さらに十三郎の弟で実家の浅野屋の主となっている甚内も出資に応じてきた。
吉岡宿の要望は代官、百姓に同情的な橋本権右衛門から郡奉行の今泉七三郎に取り次がれ、藩の勘定方に提出されたが、藩の出資司で冷酷怜悧な萱場杢の反対で却下されてしまった。
ところが、浅野屋の先代も藩に資金を差し出し、その見返りに伝馬負担の軽減を要望しようとして倹約に倹約を重ねて小銭を貯め込んできた。そういう長年の努力があったことを藩に示しながら再度要望を提出して、出入司に資金用立てを認めさせた。
だが、酷薄な萱場は出資金を銭ではなく金(小判)で――銭5000貫文ではなく金1000両でということだが、銭と金との交換相場で2割方負担が増すことになった――納めることを命じたため、吉岡宿の人びとはさらに涙ぐましい努力を重ねてようやく資金を用立てることができた。
とはいうものの、さらに無理な拠出を引き受けた浅野屋は破産寸前となった。そこに文人学者肌の藩主が乗り込んで、浅野屋をどうにか立ち行くように粋な計らいを見せた。