さて、自分たちが住む町(街区)の富裕な旦那衆が資金供出に参加していないということで肩身を狭く感じた利兵衛や平八たち。彼らは庶民――というよりも貧困な下層民――にすぎないのだが、おのれの「体面」
self-respect / self-dignity というものを非常に大切に感じていた。
「中町の旦那衆は身を捨てて吉岡宿三町を救おうと篤心をふるっている。それに引き換え、上町や下町の金持ちたちはふがいない。
このままでは、上町と下町は中町の旦那衆の苦心にタダ乗りして救われる立場になってしまう。そうなれば、自分たちは今後、肩身の狭い思いをして生きていかなければならない。通りを歩くにも、小さくなっていなければならない。そうなっては困る」
というわけで、彼らは自分が住む町の金持ち旦那衆に出資の応じるように説得して回ることになった。
この場面では、下層民衆が富裕商人層に理を説いて説得している。映画では誇張されているが、原作でも、寺の下働きをしている貧しい平八という男が、分限者の商人たちに穀田屋たちの資金集めに協力すべきだと説得して回った事実が書かれている。平八と商人は対等の町の住民として話し合っているのだ。
ところで、17世紀半ばのイングランドのピュアリタン革命では教導者 agitator という用語が生まれた。オリヴァー・クロムウェル率いる騎兵連隊で騎兵たちに目的の正当性を訴え説得する役割を担った隊員のことだ。⇒参考記事
その後19世紀までにはアジテイターは騒乱や闘争の「扇動者」という意味に一面化されてしまったが、本来は、理を説き説得する者のことだった。
この映画では、馬方たちがこの本来の意味でのアジテイターとして振る舞ったということだ。
してみると、日本でも特有の市民社会が成立していたといえる。同じ時代――市民革命前の――のフランスなんかよりもはるかに進んでいる。西欧をモデルとして崇拝する歴史学者たちは「日本には市民社会はなかった」と劣等感丸出しの史観を呈するが、そんなことはない。
私は「明治維新」については辛辣に批判的な立場だが、それは独特の市民革命であって、国家制度という点ではイングランドやフランスを凌ぐほどの変革を達成している。「国民国家」をあれほどの速さでつくり上げて、列強として世界市場での資本蓄積競争と軍事的勢力争いに参入した「成果」は瞠目すべきだと考える。
とはいえ、それは周辺の諸地域や諸民族にとっては日本の資本と国家による侵略と抑圧にさらされるという悲劇を招いたのだが。日本も自国の利害のために世界市場分割闘争を添加した欧米諸国家と同様の地位を獲得したわけで、人類史的には明治革命の成果を誇るわけにはいかない。
「近代国民国家」の形成につながる市民革命とは、とどのつまり、資本の世界市場運動に適した対外的にすぐれて侵略的=攻撃的な政治的=軍事的組織をつくり上げる運動だったのだ。
ところで原作では、自腹を切って資金を拠出したのは上町の旦那衆だ。穀田屋や菅原屋、肝煎は上町に属する者たちだった。
平八たちは下町の主だった商人たちを回って説得し、雑穀屋の早坂屋新四郎から300貫文、小間物屋の穀田屋善八から200貫文を拠出させることに成功した。しかし、「ない袖は振れない」と説得に応じない旦那衆も何人かいた。馬方衆はこうして、吉岡宿上町と下町の主だった商人旦那遊のあらかたを説得して歩いたのだ。
かくして、資金調達運動は、吉岡宿全体におよぶ社会的な広がりをともなう意識状況と運動になっていった。
町中に噂が飛び交い、しかも新たな出資者の出現したことから、肝煎や穀田屋たちは、秘密裏に進めてきた運動の情報がどこからか住民全体に漏れてしまったことに気づいた。これはまずい、と菅原屋と穀田屋が危機感に浸りながら街を見回っていると、案の定、馬方たちの説得を受けて資金集めの本当の目的を知った遠藤寿内が肩を怒らせてやって来た。そして、問い詰めた。
「お上に金を貸して得た利息を町に落として伝馬役の負担を軽くするのは、大いに結構なことだが、それでは出資したわれらには一文も入らないということになる。
利を求めて動く商人として理解できない。だから、この話から降ろさせてもらう」と息巻いて踝を返した。
このとき、菅原屋は寿内の顔つきから事のしだいを読み取り、「寿内さんが本当のことを知ったときには誠心誠意説得すれば何とかなる、とおっしゃったのは穀田屋さん、あなたですよね。この場は何とかお願いします」と言って、穀田屋に下駄を預けてしまった。原作とは違って、菅原屋は目から鼻に抜けるほど賢いが、自らは荒波を被るのを避けたがる調子のよい人物として描かれている。
その後、肝煎の遠藤幾右衛門は、菅原屋を脇に控えさせながら、平八ら伝馬人足たちを屋敷に呼びつけて、この話を誰から聞いて、誰に話して回ったのかを問いただした。そして、穀田屋善八や早坂屋新四郎が資金拠出の説得に応じたことを知った。
さらに「では、上町の旦那衆に説いて回ったのは誰だ」と詰問した。
平八たちは答えた。「へえ、卯兵衛が上町の浅野屋さんを回ったはずです」
肝煎と菅原屋は驚いた。というよりも呆れた。あのケチで名の通った浅野屋甚内が資金の拠出に応じるはずがない、よくもまあ、あんな吝嗇漢のところに無謀にも説得に行ったものだ、と。
じつは馬方たちのあいだでも、浅野屋甚内の吝嗇ぶりは知られていて、「あんなしみったれが金を出すはずがない。同じ兄弟なのに、浅野屋さんと穀田屋さんは正反対だ。どうしてあんなに気質が違うんだろう」と評判になっていたのだ。
だが卯兵衛は、下町からも説得に応じて出資者が現れたのに、上町の旦那衆は誰も金を出さないという事態をひどく恐れた。そこで意を決して評判のケチに対して説得に向かったのだ。
肝煎と菅原屋たちが卯兵衛の無謀な挑戦に呆れているところに、卯兵衛が戻ってきて戸口に立った。どうせだめだろうと思いながら、卯兵衛の首尾を問いただした。
すると、浅野屋は説得に快く応じて「出しましょう」と返答したという。
驚いた菅原屋が浅野屋に駆けつけて資金拠出の本当の目的を語った。というのは、藩から得た利息を出資者の自分たちは受け取らずに、町の伝馬役の費用に充てるという事情を知らないから、出資に応じると返答したのだろうと思ったからだ。
だが案に相違して、浅野屋は静穏な口調で、だからこそ金を出すと明言し、「どれほどの金を出すのか」と聞いてきた。菅原屋は同志は一律で一人当たり500貫文だと説明した。
「そうですか。この吉岡宿でも一番の分限者だといわれているこの浅野屋が皆さんと同じように500貫文というのでは、話が通りません。2口を出しましょう」と請け合った。