十三郎は、隠されていた父親と弟の覚悟と努力を知った。宿場内ではケチ、しみったれという侮蔑を受けながら黙然と質素倹約に励み銭を貯めてきた。そして、今回の資金集めでも1000貫文を拠出した。やはり弟は偉い。自分はそんなことを知らずに父と弟を敬遠してきたと恥じ入った。
「父親は兄弟に陽明学の『冥加訓』を読み聞かせていたが、私は少しも聞き入れず理解もできなかった。すぐ嫌になって庭に出てしまった。」と悔やんでいると、きよがやさしく語りかけた。
「いいえ、あなたはちゃんと聞いていたのですよ。理解していたのですよ。
だから、あなたはお父さん同じように、このたび町を救おうと資金集めに奔走した。ほんとうに親子はよく似るものですね。
お父様は、あなたが生まれたときから甕にお金を貯め始めたのですよ」
ということは、父親の甚内が一念発起してからかれこれ50年近くになるわけだ。
こういう話を感に堪えないという面持ちで聞いていた菅原屋は浅野屋を出ていった。大肝煎にこの話を聞かせて説得しようと思い立ったのだ。おりしも、大肝煎が吉岡宿の今後――そして自分の立場――を心配してやって来ていた。
そして、宿場の人びとが集まり興奮し騒然とているのを見て菅原屋に問うた。「菅原屋さん、あなたお上の返答のことを皆に話したのですか。嘆願はもう少し時間をおいてやるべきです」
それを聞いて菅原屋は語気を強めて言った。
「いや、話していませんよ。そんなことより、あなたはいったいどっちを向いて仕事をしているんだ!?
いますぐ浅野屋さんに来てもらって、話を聞いてください!」
彼は、父子二代の浅野屋甚内の覚悟と懸命な努力を千坂仲内にも聞かせようとしたのだ。
浅野屋の前には甚内や十三郎たちが出て大肝煎を出迎えた。
大肝煎と菅原屋が店に入ると、甚内と十三郎は後に続こうとしたが、甚内は店の戸口でつまづいてしまった。兄がすぐに駆け寄って手を差し出して助け起こして、弟に肩を貸して支えた。「おまえ、どうした? 目が?」
甚内は苦笑いをしながら兄に答えた。
「ご覧のとおり、私は目がよく見えません。これでは他家に養子にいくわけにもまいりません。こんな私のために、兄様にはとんだご迷惑をかけてしまいました。申し訳もありません」
ここでようやく十三郎は自分が穀田屋に養子に出された理由がわかった。本当の理由も知らずに変なわだかまりを抱いていた己を恥じながら、弟に頭を下げた。「迷惑だなんて、そんなことあるもんか」
十三郎はいたわるように甚内に肩を貸しながら、座敷に向かった。そこで、千坂仲内に浅野屋の父子二代にわたる覚悟と努力の歴史が語られることになった。仲内が強く心を打たれてふたたび代官に嘆願を申し出る覚悟を決めた。
■大肝煎、代官に再びかけ合う■
大肝煎、千坂仲内はさっそく橋本権右衛門のもとに参上して、浅野屋甚内が50年近く前に発願し、銭を貯めて藩に差し上げて伝馬役の負担を軽減してもらおうとする努力が始まったことを訴えた。
橋本代官は、そうなると吉岡宿の嘆願を50年近くも前から始められたものとして、前回の嘆願とは事情が違っていることを理由に再度差し出すことができるのではないかと考えた。
というのも、前回の嘆願を萱場杢が「吟味しにくい」という言い方で却下したのは、財政逼迫に陥った藩の弱みを見て藩に金を貸し付けて利息をもらおうとする「得取勝手」な申し出たと判断したからだ。
だが、先代の浅野屋甚内から50年近くもの間、吉岡宿は伝馬役の負担の重さに呻吟して、その軽減の方途を探ってきたという苦難と努力の歴史を慮れば、藩としても嘆願を却下できないだろうと見たのだ。
橋本代官は鳥居急いで末書――百姓の嘆願を藩庁で検討に回すための添え状:これがないと嘆願は藩庁に受理されない――をしたため、早馬で仙台城二の丸に駆けつけた。
このように百姓の民生に心を砕く代官が黒川郡にいたことは、吉岡宿の幸運だった。幕藩体制がともかくも250年以上も続いたのは、各藩の多くの郡にこのように本来の任務に熱心な役人たちがいたからだろうと思う。格差の放置と抑圧・収奪だけでは、レジームは長期に存続しないのだ。