その出来事を見た遠藤寿内の情報アンテナの感度は一段と鋭くなった。煮売り屋「しま屋」で一杯やりながら情報収集に努めることになった。
おりしも、穀田屋と菅原屋から家財を質にとって大金を貸し付けた仙台の有力な両替商(金貸し)が一仕事を終えて煮売り屋で酒を飲んでいた。
寿内はその両替商から、穀田屋と菅原屋が家財を抵当に入れて大金を借りるにいたった事情を聞きだすことに成功した。
両替商によれば、2人は仙台藩に金を貸し付けて利息を得ようとしているというのだ。
この情報を仕入れた寿内の頭のなかの算盤と思考は目まぐるしく躍動した。
彼の手許には、仙台藩が銭の増鋳を始めようとしていることが伝わっていた。つまり、藩は財政逼迫の状況にあって、払底しそうな藩庫に金をかき集めるために銭を大量に鋳造しようとしているのだ。
■仙台藩の財政危機■
映画では、仙台藩が厳しい財政危機に陥った主要な原因が、藩主の宗村が薩摩藩島津家と張り合って官位争いをしているからだという設定になっている。仙台侯は従四位下左近衛権少将という官位がほしかったのだ。官位は幕府が授与するのではない。幕府が家臣である大名や有力旗本などのうち、功績や名声があって、しかも幕府にとって覚えめでたい者について推薦して、朝廷(天皇家)に対して官位の授与を願い出る仕組みになっている。
ということは、幕府が求める治山治水などの普請(公共事業)を率先して請け負ったりして顕著な功績を上げた上に、幕閣の重鎮たち、さらには公家に対して「付け届け=賄賂」をしなければならない。つまり、数十万両にもおよぶ出費が必要なのだ。
そんなわけで、見栄っ張りの先代藩主(6代宗村)と若殿(7代重村)の政策のために仙台藩は少なく見積もっても25万両の赤字を強いられてしまったのだという。
これに対して原作では、若殿の父君が将軍家の養女を跡継ぎの妻に迎えるために、仙台に御殿を建てたり、幕閣に働きかけるために大金を支出したことが、財政逼迫の原因となっている。
金に困っている藩に金を貸し付けて利息を受け取る……こんなうまい儲け話はめったにない。そういう有利な利殖の好機を逃さないように、目ざとい穀田屋と菅原屋、そして肝煎たちは借財してまで資金を都合した。しかも、利得機会を独占しようとして、彼らは内輪でことを進めている。欲張りの寿内は、他人もまた自分と同じ損得勘定で動くものと決めつけて、最近の動きをそう判断した。
そのうまい儲け話に自分も乗せてもらおうと意気込んで、肝煎の多識に乗り込んだ。
おりしもそのとき、
肝煎と穀田屋十三郎、菅原屋、穀田屋十兵衛たちは、家財を全部質入れして借り集めた資金の総額が2500貫文で、目標の半分でしかない。このあとどうやって不足する資金を集めるかの対策も立たず、焦燥に暮れているところだった。
「藩に大金を貸し付けて利息を得る」という企ての半分しか知らない寿内は、肝煎の屋敷に乗り込んで強引に運動への参加を求めた。しかも、仲間になる条件として一口500貫文の拠出が必要だと聞くと、「私は二口分出させてもらいましょう」と言って帰っていった。
肝煎は、寿内は藩に貸し付けた資金の利息は出資者である自分たちの収益にはならず、あげて吉岡宿の伝馬役の費用負担に回されることを知らずに出資するわけで、利息はあげて宿の伝馬役のために用いるということを知ると憤って手を引くのではないかと深く懸念した。
これに対して菅原屋は、「藩に金を貸すということは間違いないのだから、大丈夫でしょう」と平然としていた。穀田屋十三郎は「事情を知ったときには誠心誠意説得すればわかってくれすはず」と意気込んだ。
仙台藩の銭の増鋳について説明と疑問を加えておく。
藩庁が少額硬貨としての銭(おそらく一銭通貨)を造幣するとはいっても、貨幣鋳造の実務は藩ご用達の有力両替商――「鋳銭御用商人」という――に全面的に委託することになる。原作では、仙台の豪商にして藩に巨額の融資をおこなっている三浦屋が鋳銭実務を請け負うことになっている。
藩領主権力と貨幣鋳造を請け負う商人との関係や造幣の仕組みについては、日本とヨーロッパは共通しているところが多いので、それについては私の論文《王室財政と通貨権力》を参照してほしい。
こういう少額貨幣については、幕藩体制のもとでも各藩侯は藩内という地方統治管区レヴェルでの貨幣鋳造権力を認められていたということだ。
ただし、大口決済用通貨としての金貨=小判と銀貨については、幕府だけが造幣権力を独占していた。そして、小判については、いわば「準備通貨」ともいえるので、幕府から許可を受けている大商人の決済や幕府への献金・賦課納入などに限って使用を認められていた。
しかも一枚一枚にバラシての使用は罰令で禁じられていた。幕府御用の金座の後藤家が小判を点検し集約して、25枚ずつひとまとめにして和紙で包み押印し、金額を表示し、原則的にはさらに25両を4個集めて100両としてはじめて通用した。
使用にさいして和紙包みを意図的にバラすことは厳罰をもって禁圧されていた。事故で不可抗力でバラけてしまうことは許されたが、その証明が必要だった。バラの小判は通用力を失った。
したがって、庶民は小判を使用することは認められなかった。だから、講談のように鼠小僧が武家屋敷から盗んだ金を小判で庶民にばらまいたとしても、庶民が正直に届け出ずに小判を使用すれば死刑を含む厳罰に処されてしまう。
ところで、一般商人が幕府の許可を得て金座にバラバラの古い小判を持ち込んで、品質や量目の検査を受けて100両の準備通貨として認められるさいには、小判としての重さの誤差は3%まで認められていたようだ。つまり、――めったありえないが――未使用のバラ小判ならば、97枚で100両として認められたわけだ。