だが、支配階級、さらには教皇庁や教会指導者は、彼らの権力とって脅威となったこの危険な煽動者の追い落としを求め始めた。街頭の群衆の圧力で統治政策が左右されてはならない、というわけだ。
翌1495年7月には、教皇庁はサヴォナローラに異端を宣告した。そして、ついに97年5月、教皇はこの修道士を破門した。
フィレンツェ市内でも、名門家系や聖界の指導者が共和政反対派に結集し、サヴォナローラを陥れる策謀を駆使して、ついに彼の言う「神聖政治」のデマゴギー性を暴露した。
従前からのエリートたちは、利用価値がなくなり、むしろ危険人物となった怪僧を排除しようと画策する。
こうして98年4月、短期間の煽動主義的な共和政は崩壊し、翌月、サヴォナローラは絞首刑に処され、その遺体は火あぶりにされた。
市内ではメーディチ派が勢いを回復してきた。
とはいえ、各政派の力関係は拮抗していたので、脆い力の均衡の上で共和政はなおしばらく持続することになった。
そして、この月の終わり近くに、無名の青年マキァヴェッリはフィレンツェ政庁第2書記局の高官に抜擢された。
彼は、サヴォナローラの煽動的な説教や予言にはうんざりしていた。だが、この修道士の影響下で復活した共和政を存続させるべく、激動するイタリアのなかで、また多くの敵に取り囲まれながらも、奮闘することになった。
皮肉なめぐり合わせだが、青年マキァヴェッリは、フィレンツェのレジーム変革を、混迷するイタリア情勢のなかで求めた理想に向けた突破口にしようとしたのかもしれない。
イタリア戦線は、多数の都市国家群や教皇が足を引っ張り合う「軟弱な政治的・軍事的空間」であるかに見えた。政治の権謀も駆け引きも罠も、そして芸術も思想も、とび抜けて洗練され爛熟していた。
だが、うっかり足を踏み込むと泥沼に引きずり込まれる「伏魔殿」でもあった。地盤が軟弱ゆえにどこにも身を支える足場がないというべきか。
新たに台頭した――力任せの――西ヨーロッパの王権なんぞは、イタリアにとっては、まるで生まれたばかりの赤子のようにあしらう権謀術数に長けた政治文化の最先進地域だった。
だが、そこに蓄積された富(貿易と金融技術)、洗練された芸術や文化、製造技術……それらは、ヨーロッパの覇権争いに名乗りを上げた有力王権にとって、その名声や権威を打ち固めるために代えがたい魅惑的な「資源」だった。
域外の野暮な王たちは、支配したつもりが魅惑の虜になって足元をすくわれることになるのだ。