さて話を戻して、1494年。
大がかりな砲兵隊やスイスの槍兵隊(傭兵団)を率いて、またくまにイタリアを席巻したフランス王シャルルではあった。
とはいいながら、さりながら、イタリア都市国家群の外交駆け引きはおそろしく巧妙で、二枚舌、三枚舌、虚言と裏切りは日常の作法のうちだった。
イタリアで覇権を打ち固めようとしたシャルルだったが、イタリア迷宮の老練な術中にはまってしまった。
とはいえ、フランス王が指揮する傭兵スイス槍兵団とガスコーニュ部隊、そして砲兵団は、組織化された戦闘を繰り広げ、それまでのイタリアの軍隊とはけた違いの破壊力を持っていた。
こうして、戦争の構造は転換していった。
各都市国家に雇われた傭兵隊が金儲けのためにおこなう見栄えだけ立派な戦闘ごっこ、あるいは戦火に紛れた掠奪という形態の戦争から、数か月以上も持続する一連の戦闘・戦役からなる戦争、破壊力と強度がはるかに拡大した王権国家どうしの戦争へと。
というわけで、新たな戦法を駆使してイタリアでは敵なしの様相を誇ったシャルルだった。だが、まだフランス諸地方の統合とか統治装置の集権化に手をつけ始めたばかりで、外征――予想外の快進撃――に現を抜かしていたのも確かだった。
なにしろイタリアの諸都市の有力者たちが次つぎと彼の軍門に下っては巧言麗辞を弄するのだから。
王の外征中にフランス域内の紛争や混乱の勃発を虎視眈々と狙っていたのが、エスパーニャ王権だった。
この王権は、イベリア域内諸地方の統合とか有力地方貴族の統制にはほとんど関心を抱かず――いや、考えられず、できなかったというべきか――、ひたすら外部への膨張・侵攻を追求していた。
このエスパーニャ王権と密かに通謀したのが、邪魔になったフランス王軍をイタリアから駆逐しようと企む教皇だった。エスパーニャ王権もまた、イタリア戦争に介入しようと機会をうかがい、なおかつシャルル王が不在で王権の統制が緩みかけたフランスに攻撃をしかけた。
というのも、「国境」すなわち「国家の領土」という観念がいまだ存在しないこの時代、それぞれの王権は自分の軍事力や影響力のおよぶ限りの空間を支配統治しようとしても、何ら非難されることもなければ、倫理観や良心に痛痒も感じることもなかったからだ。
そして、エスパーニャ王国は、カスティーリャ王権とアラゴン王権との連合によって成立していた。
アラゴン=カタルーニャ伯領(侯国)の王は長らく西フランク=フランス王国の有力君侯の1つで、あるときはフランス宮廷に臣従を誓い、これまで幾度もフランス平原での覇権争いに加わってきていた。
その頃にもピレネーはもとより、ガスコーニュ(ギュイエンヌ)やラングドック地方には、パリの王権よりもずっと大きな影響力をおよぼしていた。
しかも何よりも、シャルルがナーポリの王位を奪い返した相手はアラゴン家だったから、エスパーニャ王権としては反撃・奪回を欲していた。