《君主》のなかで、マキァヴェッリは述べている。
ある者が奮闘努力して、また周囲の力関係に目配りし――つまり有力者に愛想を振りまき――ながら、ようやく君主の座に居座った途端、そこでは彼を君主の座に押し上げた力関係や支持基盤の影響力が、彼を翻弄し拘束するようになる。
そうしたものに配慮して統治するかぎりは、いずれ君主の政策や振る舞いは日和見になり、結局、自分の本来の支持基盤や同盟者から見捨てられ、権力の座から追い落とされ、みじめな最期に陥る、と。
この辛辣な視座を、現代社会に当てはめてみると、政治権力の存在構造や行動様式は、この500年間ほとんど変化していないことがわかる。
とりわけ、今の日本の政権政党の様を見れば、マキァヴェッリがいかに卓見だったかがわかる。
経済の先行きやら自らの権力基盤なり支持基盤については、首相ならずとも、私たちの誰もが、明確な見通しを持てなくなっている。だから、目先の権力保持のために、耳触りのよいキャッチフレイズを振り撒く。
そして、ぬるま湯的な政権政党の座に安住した「軟弱者たち」が、きわめて安易な目論見(覚悟)と政権構想で、政権の首座に就くという事情もわかる。
この事情を、マキァヴェッリ=グラムシ流のヘゲモニー理論で分析してみよう。
ここでは、現代国民国家が一定の地理的範囲で、利害対立する諸階級へと分かたれた住民集合を統治秩序の枠内に統合するシステムであり、この統合を強制し担保する権力装置をまとった構造であることを前提しておく。
そして、この秩序が、政治的・経済的に最優位にある諸階級の支配的地位を維持するために適合したものであることも。
さて、政治的次元において統治集団(ここでは政権党)のヘゲモニーは固定した状況=構造ではない。普段のヘゲモニー・プロジェクトによって、党の最優位と威信を再生産することで、はじめて維持されるものなのだ。
日本の政権政党の戦略的失敗は、ひたすら現状の多数派議席を維持するために、財政危機(財政赤字累積)問題を明らかにしこの問題に正面から取り組むことを避け、党の自己変革・新陳代謝という課題から逃げまくってきたことだ。
党の組織や政策能力の内容については目をつぶり、「多数議席を占めている」という仮象=見せかけだけを守るしかない、という危機状態、いや危機を危機として認識する分別がないという末期的危機。
この危機は、党の指導層にとくに目立つ「選挙区=議席の世襲」が原因になっている。2代目、跡継ぎ「お坊ちゃんたち」は、親から選挙区と支持基盤をそのまま引き継いで、ただ漫然と議席を獲得した。
ゆえに、選挙区というミクロコスモスのなかですら、自ら支持基盤を築き上げる(初手から民衆を説得する)経験を積んでいない。
世襲代議士たちは、生まれたときから自民党の優越という政治環境が「自明の当然」「当たり前」と意識してきたから、なぜ、いかにしてこの政治状況が生じ再生産されてきたかについては、ある意味では無頓着だ。
世代交代の長い期間の間に、自民党が依拠していた支持基盤や権力基盤が変化しているのに、「跡継ぎ」たちは、居心地のよい既得権益や既成の利益分配、組織、高級官僚との従来どおりの同盟関係に安住してきた。
党の先達たちが、戦後の復興や高度成長の政策的誘導をつうじて、知的・道徳的な優越=威信=信頼感を培い獲得してきた歴史的経験を、突き放して分析することを怠ってきた。つまりは、歴史センスが欠如しているのだ。
統治集団=政権政党は、その統治の正統性を民衆に受容させるための説得、同意調達のプロジェクトを、変動する状況に応じて絶えず試みなければならない。