教皇がフランス王をイタリア、ことにナーポリ王国に誘ったのには、理由がある。
1つには、ナーポリ王権=アラゴン家とその取り巻き貴族たちによるローマ教皇領への侵攻と略奪の脅威を取り除こうとして、シャルルをしてアラゴン家から王位を奪い取らせようという狙いがあった。
アラゴン家の王フェルナンドはそのとき、カスティーリャ家(イサベル女王)との婚姻によって、エスパーニャ王国を共同統治していた。つまり、エスパーニャ王権がナ―ポリを支配していた。
ところが、ナ―ポリ王国では前々から王室の権威が衰弱していて、地方領主が分立して王室の権限を蚕蝕していた。王室は地方領主を宮廷に引き寄せたりおとなしくさせたりするだけの財政収入も権力もなかった。
そこで、乱暴な地方領主と結託してローマなどの近隣地方に攻め込んで、所領を分捕ったり、都市を掠奪して稼いでいたのだ。王権が強盗を働いていたのだ。
ボルジア家はエスパーニャ王国バレンシーアの有力領主だが、カスティーリャ王室からもアラゴン王室からも政治的・軍事的に独立するほどの権力と富を持っていた。そして、エスパーニャ王室の権力がバレンシーアに浸透することを阻止していた。
それがヨーロッパ随一の大王国エスパーニャの実情だった。その意味でも、チェーザレが「スペイン団」を組むことはありえなかった。
教皇の狙いの2つ目は、フランス王権の圧力によって教皇庁と対抗する諸都市を牽制して、その方面に教皇領を拡張しようというものだった。
アレクサンデルとしては、北イタリアに勢力を拡張してきたヴェネツィアとミラーノを掣肘し、かつまたトスカーナ一帯を征圧して、さらにロマーニャにまで圧迫を加え始めたフィレンツェを押さえつけようという狙いがあったのだ。
ことにフィレンツェのメーディチ家の権力を切り崩そうとしたのだ。先頃まで同盟していたメーデイチ家を追い落とそうというのだ。
そして、フランス王を利用するだけ利用して教皇領の勢力圏を固めたら、今度は諸都市と同盟して、フランス王の足元を掬って、イタリアから駆逐しようという腹積もりもあったようだ。
ところが、シャルルはほんの10年前にようやくフランス王位を手に入れたばかりであるにもかかわらず、そのガリアの地での王の権威はきわめて弱体であることを自覚してはいなかった。
ガリア(西フランク)の地では、ほんの数十年前まで、領主諸侯がフランス王派とプランタジネット(ノルマンディ=アンジュー王権)派に分裂して、百年以上にわたって戦争(小競り合い)を繰り返していたのだ。
王権による統合と集権化はようやく始まりかけたばかりだった。
シャルルの企ては、今にしてみれば無謀だったが、当時のヨーロッパはいまだ中世晩期以来の古臭い王権思想・政治観念に即して動いていた。
1つの地方での王権国家=領域国家の形成は、とりわけ多数の君侯領主たちがひしめいているヨーロッパ大陸では、ヨーロッパという政治的舞台での見栄えの誇示なしには、成功しなかったのだ。イタリアの制覇は、フランスの貴族たちに王の権威をみせつけるプロジェクトに見えたのも無理はない。
何よりも「果断さ」が必要だった。ただし、果断さと権威は、あくまで自己の軍事力と権威によって裏打ちされなければならなかった。
他者の誘いにうっかり乗れば、寝首を掻かれ、あるいは足元を掬われる。そのリスクにしかるべき手当てをした者だけが、目的達成のために、状況の有利さを利用しつくすことができたにすぎない。
その意味では、フランス王の企図は準備が甘かったかもしれない。
他方で、フランス王のイタリア遠征には「正当な理由」もあった。
シャルル・ドゥ・ヴァロワは、フランスの名門アンジュー家の家産と所領を相続していた。そのなかには、名目上、シチリア=ナーポリ王国(並立王国)の王位も含まれていた。
そこで、この王位をめぐって争っていたアラゴン家(エスパーニャの王族)に対抗しようとしたのだ。
さてシャルルの軍は、半島の南端までほとんど抵抗らしい抵抗を受けずに、まるで軍事パレイドのように進んだ。快進撃というべきか。
それは、戦争というよりも、イタリアの弱小な諸都市や領主たちが、フランス王軍の威容を目にして、いとも簡単に臣従や同盟を誓約するというような有様だったという。