だが、当時の君主政はきわめて脆い仕組みだった。
当時、ヨーロッパには安定した領土を備えた中央集権的な国家(国民国家)はまだ影も形もなく、誰も想像することすらできなかった。
王権や君侯による幼弱な領域国家と断片的な国家装置がようやく形成され始めたところだった。
やがて《国民: nation 》という観念にまで転換発展する natio や gens とは、当時は、宮廷とその周囲に組織された顧問会議や身分評議会に参集する特権諸身分――土地貴族や都市の富裕市民――のことだった。君主の意思決定過程や統治に参加しうる身分集団を意味していた。
それでも、カスティーリャやフランス、イングランドに出現した王権は、イタリアの都市国家や北ドイツの(ハンザ同盟の)自治都市を凌駕する権力を保持していた。それでも、これらの王権は弱点だらけで権力の存立基盤はものすごく脆かった。政治的・軍事的権力ではイタリア都市国家とけた違いの強大さをもっていたが、その財政基盤はジェーノヴァやミラーノ、フィレンツェ、ヴェネツィアにはおよばなかった。
それぞれの王国の名目的版図の全域に支配権をおよぼしているとはいえなかった。場合によっては、直轄の王領地ですら近隣の有力領主によって脅かされていた。
王は地方貴族の権力に対抗させるべく、都市の富裕商人を叙爵して宮廷家臣団に加え、自らの権力基盤、財政基盤として取り込もうとしてきた。
この時代のフランス、イングランドの王権は、独特の貴族連合――都市の商人貴族も含む――という基盤の上に成立していた。
しかしカスティーリャ王権は、貴族連合の内部に〈都市=商人ブロック〉を取り込んでいなかったため、長期的には(17世紀の末までには)没落していった。
16世紀末には、独特の都市と貴族との同盟を組織したネーデルラント(ユトレヒト同盟)がヨーロッパの覇権闘争の首座に躍り出た。だが、この同盟は、強力な王権的要因を欠いたため、域内の統合が弱く、ブリテンとの競争に敗れ、18世紀はじめまでには優位を失っていった。
マキァヴェッリが政治体の中核的な要因として君主=王権を掲げたのは、当時の状況では、統治権力の一体性とか主権の不可分性、そして権力・権威の正統性を担保できるのは、君主政=王権レジームだけだったからだ。
しかし王権の統治装置とはいっても、事実上それはもっぱら君主の家政装置、家産的統治装置( Hauswirtschaftsamt )によって担われていた。
ゆえに、統治装置には公権性・公共性( öffentlichkeit )はほとんどまったくなく、王室という特殊な家門の私的な(パーソナルな)家産( Hauswirtschaft / Haushalt )だった。
だから、王室の収入を得るために王権の支配にかかわるさまざまな特権、たとえば商業特権とか徴税権、関税賦課権など)を誰に、どういう条件で、いくらの金額で売り渡そうが、公正さや公平を非難されるいわれは少しもない。
今の規範意識では「賄賂」だが、当時の法観念では、あくまで王室という最有力の私人の財産権の処分・運用の問題にすぎなかった。
現に王権は、こうした特権=特許状を都市や商人団体に、税や賦課金上納とか王室財政への貢献を条件に譲り渡して、強固な政治的・財政的基盤を構築しようとした。これは、正当な財政権=特権の分与だった。
王は、通常の支出を超える戦争や軍備のための財政費用をまかなうために、身分評議会を招集して、都市代表に臨時課税・戦費割当税などの徴収への同意を求めた。そういう王室収入を担保にして、王は私人として金融商人から借入をおこなっていた。
しかも王権は、そもそも住民の財産状態を把握して課税計算をおこない、税を徴収する仕組みを十分に備えていなかった。課税徴税を金融商人に委託する場合が多かった。
王権はこうした財政収入によって、どうにかこうにか王国の統治や戦争をまかなった。