さて、1498年のフィレンツェ。共和政が復活して、政庁長官はピエーロ・ソデリーニだった。ソデリーニは思慮深かったが、その反面、優柔不断だったという。その長官が、「ヒラの書記官」だったマキァヴェッリを軍事と外交の面で重用することになった。
マキァヴェッリは、処刑されたサヴォナローラの失敗から市政庁独自の軍事力の整備と組織化の必要性を痛感していた。
そんなおり、書記局ないしは政庁に提言する機会があったものか、あるいは書記局長の推挙でもあったものか、政庁を指導する立場に抜擢された。ニッコロはソデリーニの指揮下で、市民軍の編成と装備の責任者の任務を与えられた。
マキァヴェッリは、理想とする古代共和政ローマの範にしたがって、市民が自発的な武装して兵員となり、軍隊を構成する制度を構築しようとした。
民衆が自らの利害(都市国家と利害を共有)と意志にもとづいて軍務を遂行する仕組みを理想としたのだ。
彼は、槍・火縄銃、鉄製の胸当て、制服・制帽を用意して、フィレンツェのコンタード(周辺都市や農村)から徴募した若者たちに支給し、軍事訓練を施し、組織化した。1506年には市民軍の閲兵式が挙行された。
この軍は、傭兵からなる軍隊のように、利にさとい商人でもある傭兵隊長の各個独立した組織の集合として動くのではなく、政庁の指揮下で統制されて戦闘に従事することになった。
これは、当時のイタリアの軍事組織としては画期的なことだった。
兵員の給料と補給は市政庁すなわち都市国家が責任を負ったのだ。市民軍は、それゆえ、傭兵隊のように略奪や威嚇によって住民から食糧や兵器を調達することはなかった。
士気と規律が高い都市国家自前の軍ができ上がった。それは、やがて17世紀にエスパーニャからの長い長い独立戦争を戦い抜いた、近代的なネーデルラント連邦軍のさきがけとなった。
ではあったが、このときフィレンツェは、容易ならざる軍事的環境に置かれていた。
1503年に教皇アレクサンデル6世が死去すると、つかの間の在位のピウス3世を挟んで、ユリウス2世が教皇を即位した。
軍人上がりの攻撃的な男だった。ユリウスは、アレクサンデルが推し進めた教皇領の拡張政策をさらに強化した。
だが、アレクサンデルのボルジア家とは敵対する政派に属していた。
それゆえ、ローマ教皇軍の将帥としてのチェーザレ・ボルジアは、自らの家門に敵対する教皇の支配下で過酷な軍務を押しつけられて、しだいに追いつめられていった。
チェ−ザレにとっては、父親アレクサンデルの死とともに、没落の運命が待ち受けていたことになる。その苦悩が病弊を呼んだかもしれない。
ユリウス教皇は、名目上は教皇領にありながら分立・独立していまやヴェネツィアの勢力下にあるロマーニャ地方を征圧し、さらにエミーリャ地方にまで支配を拡大しようとした。
そして、教皇権力から独立を強めていていたペルージャとボローニャを攻略回復し、さらにラヴェンナ(ヴェネツィア近辺)に迫ろうとしていた。
このとき、教皇は、ヴェネツィア包囲網を組織するための同盟にエスパーニャ王権とフランス王権を加担させ、ラヴェンナを攻略した。
1509年、アニャデッロでヴェネツィア軍を破ると、教皇は今度は「イタリアから蛮族(なかんづくフランスのこと)を追い出せ」と諸都市に要求し、フランス王軍を攻撃しろと強硬な号令をかけた。
フランス王包囲網が築かれていった。