フランス王シャルルは、域内統合と集権化の中途で、1498年に世を去った。
王位を継いだのは、ヴァロワ家とオルレアン家との婚姻で誕生したルイ12世。ルイはシャルルから王位とともにイタリア戦争をも相続した。王座を暖める暇もなしに、イタリア戦線を再構築し始めた。
王権の威信を高めるためにも、ことに張り合うエスパーニャ王権、オーストリア王権を出し抜くためにも、イタリア遠征は必要だった。
ルイ12世にとっては、分裂し対抗し合うイタリアは、「捲土重来」を期すうえでつけ入る隙だらけだった。ルイは、イタリア侵攻をはかるために周到な準備を進めた。
ルイは、旧ミラーノ公ヴィスコンティ家最後の君主フィリーポ・マリーアの姉(オルレアン家に嫁ぐ)の孫にあたっていたため、ミラーノ公位の正統な継承権を主張した。そのうえで、現在ミラーノ公国と敵対しているヴェネツィアと同盟を結んだ。
さらに、エスパーニャ王フェルナンド2世と、ナーポリ王国を分割する協定を取り結んだ。
しかも、教皇アレクサンデルとは、イタリア半島中央部――ロマーニャとトスカーナ――をめぐってヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアに征服攻略の自由を認めることで、妥協=同盟をはかった。
こうして、遠征の正統性を飾りつけ、背後の安全をはかったうえ(つもり)で、ルイはイタリアに攻め込んだ。
だが、ルイは、まだまだ「尻が青い」。イタリアでは、握手は裏切りへの第一歩にすぎない。
1502年にはナーポリを征圧したものの、たちまちエスパーニャ王権と対立した。2年後にはナーポリから駆逐されてしまう。分割協定とは、すなわち力に応じた分捕り合戦ということだ。相手の二枚舌や裏切りを読み取るのも力のうち。
その間にアレクサンデル教皇は死去。教皇位を継いだのは、(わずか26日の在位期間だったピウス3世を経て)ユリウス2世。
ルイが故アレクサンデルと結んだ協定も墓に葬り去られた。そのうえ、ルイは新教皇ユリウスが仕かけた「罠」にはまってしまった。いや、結果的に罠になったのかも。
1908年、ユリウスは、敵対するヴェネツィアに対抗するための同盟(カンブレー同盟)に、フランス王を巧みに誘い込んだ。その結果、フランスはイタリアでの信頼できるただ1つの同盟者を敵に回してしまった。
しかもそのうえ、ミラーノ公国の支配権に手を伸ばし、さらにイタリア北部に影響力をおよぼそうとするフランス王権は、イタリア諸都市国家と教皇、エスパーニャ王権、オーストリア王権、さらにはイングランド王権さえ敵に回してしまった。
1511年、イタリアでついに神聖同盟全体を敵に回したルイは、敵対勢力に周囲を取り囲まれて孤立してしまった。翌年、ルイの軍は甚大な打撃を受けながら包囲網を突破し、何とかフランスまで撤退した。
とはいえ、そののちもミラーノ公国へのフランス王権の支配力を保持し続けることができた。
教皇からすれば、「してやったり」の気分だったろうが、イタリア半島の半分以上の地域はすでにエスパーニャ王権の勢力下に取り込まれていた。
さらに、エスパーニャと同盟したオーストリア王権ハプスブルク家もまた北イタリアに確固たる勢力基盤を構築していた。
そして、フランス王権が財政基盤と軍備を整えれば、ふたたびイタリアに侵攻してくるのは不可避の状況だった。