ことに、これまで中立を保っていたフィレンツェに対しては、フランス王ルイ12世に敵対する同盟(神聖同盟)に加わり、参戦するように執拗に要求した。
ところが、フィレンツェの金融商人や貿易商人たちは以前からフランス王権とは密接に結びついていて(緊密な金融・貿易関係)、政庁もまたフランスとは長らく友好関係を保っていた。
また、攻城砲兵隊とスイス槍兵隊の威力を知り抜いていた。だから、教皇への返答をのらりくらりと渋り、中立を保っていた。
1512年、エスパーニャ王軍を主力とする神聖同盟は、ロンコ河畔でフランス王軍を攻囲して決戦を挑んだ。双方とも夥しい損害を受けながらも、フランス側が辛勝した。ルイはこの勝利で包囲網を突破して、フランスに撤退することができた。
だが、中立を保持していたフィレンツェは事実上、神聖同盟の勢力に包囲されている状態だった。だが、孤立しながらも、このとき、フィレンツェ市民軍は独力でピーサを攻略していた。
マキァヴェッリは市民軍の指導と外交駆け引きに死力を尽くしていた。危機的な状況下でフィレンツェが持ちこたえていたのは、マキァヴェッリに負うところが大きかったともいえる。
ところが、教皇ユリウスの陣営には、いまやメーディチ家の当主となっていた枢機卿、ジョヴァンニ・デ・メーディチが随行し、強硬にフィレンツェの征服つまり共和政の打倒を訴えていた。
枢機卿は、フィレンツェでのメーディチ家の支配の再興を求めていたのだ。
この太鼓腹の貴公子は、(マンガにあるとおり)いったいに普段は優柔不断だが、フィレンツェ攻撃=共和政打倒だけは、一歩も譲らず、神聖同盟軍をけしかけていた。
ユリウス教皇は、いたくジョヴァンニを気に入っていて、同盟諸都市にフィレンツェ打倒を命じた。
神聖同盟はフィレンツェの勢力圏に激しい攻撃を仕かけた。
ついにエスパーニャ王軍が、フィレンツェ配下の都市、プラートを包囲し砲撃を加えたのち、市外に突入した。激しい戦闘のなかで、凶暴化したエスパーニャの兵団は、市内で掠奪と破壊、殺戮など暴虐の限りを尽くした。このとき、2000人を虐殺したという。
残虐なプラート殲滅の報は、ただちにフィレンツェに伝えられた。
狭められた包囲網のなかで、市内のメーディチ派は勢いづき、ゴンファロニエーレ(市政庁長官)ソデリーニに辞任と降伏を迫った。ソデリーニはやむなく、辞任して密かに亡命した。
この年の9月、教皇軍を率いてジョヴァンニとその弟ジュリアーノがフィレンツェに入城した。ただちに共和政を廃止して、兄弟(の共同統治)によるメーディチ家の政権を樹立した。