シャルルをイタリア戦線に呼び込んだのは教皇だった。が、フランス王軍の侵攻の衝撃はは、教皇の思惑をはるかに超えて動き出した。
フィレンツェでは共和政が復活して、教皇とローマ教会を激しく批判するサヴォナローラが主導権を握ってしまった。
しかも、1495年、ナーポリにはフランス王シャルルが居座って、ローマを含めたイタリア全域の攻略を思案中であるかに見える。教皇領の拡張にとっては、芳しくない情勢になりつつある。
そこで、教皇アレクサンデルは、フランス王をイタリアから追い出すために、反フランス王同盟――のちに「神聖同盟」と呼ばれる――の結成に取りかかった。
策謀に長けた教皇は、先頃まで敵対していたヴェネツィアと手を結び、ミラーノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ――イル・モーロと呼ばれたが、これはムスリムの北アフリカ人という蔑称でもあった――の支援さえ取り付けた。
さらにアレクサンデルは、オーストリア王にして神聖ローマ皇帝位を獲得したマクシミリアン・フォン・ハプスブルクとエスパーニャ王フェルナンドの支援も取りつけた。
だがそれは、イタリアという「羊の群」が、フランス王という「虎」を追い払うために、エスパーニャ王という「獅子」、そしてオーストリア王という「狼」を自ら草原に呼び込んだのだった。
だが、フランス王軍の組織と軍事技術はけた違いで、イタリア諸都市の傭兵軍は大半が蹴散らされてしまった。
とはいえ、フランス包囲網は巧妙に機能した。エスパーニャ王軍がフランスに侵攻を開始した。
フランスへのエスパーニャ王軍の侵攻の気配を知ったシャルルは、慌てふためいてパリに帰還し、対エスパーニャ戦線の建て直しと王室の権威の回復に努めた。
フランス王のイタリア戦線は崩れ去り、エスパーニャ王権は、1495年にナーポリを奪回した。
ところで、フランス王シャルルが「アルプスの彼方」に逃げ帰ると、イタリアには外見上、以前のような力の均衡が一時的に回復した。
そうなると、「呉越同舟神」状態だった聖同盟の内部に亀裂が入り敵対が再燃することになる。
ヴェネツィアは一方で、トスカーナへの勢力拡張をめぐって教皇とふたたび対抗し、他方ではロンバルディーアとエミーリャ地方の支配をめぐってミラーノ公と敵対することになった。
教皇は教皇で、トスカーナとロマーニャの攻略を画策していた。
繚乱綾なすイタリアを垂涎してねらっていたのがエスパーニャとオーストリアの王権であるのは、言うまでもない。