私見では、現代のフランス映画の特徴は、それぞれの登場人物たちがきわだって個性的な人生観や生き方の担い手として描かれていることだ。独特の人生観や生き様をユニークな個性の持ち主によって端的に表現させていると言ってもいい。
そういう人物・状況の設定にすると、俄然、会話が面白くなる……からではないかと思う。
もちろん、たかだか2時間足らずの映像物語のなかで、何人もの人生観や生き方を描き語り切れるものではない。しかし、そこはそれ、《エスプリ》を何より大切にする国民性。とにかく個性を表現し際立たせるのがうまい。
巧みな語り口、描き方の物語のなかで、「ああそうか、この人物はこういう人生哲学を持っているんだ!」と妙に説得されてしまう。
あるいは、個性のぶつかり合いを人生観や生き方全体のぶつかり合い(絡み合い)として巧みに描いてみせる。いや、そう思わされてしまう。
この辺の技巧というか見せ方、いや発想には、つい憧れてしまう。
で、この映像物語を観ながら、あるいは観たあとで、しみじみ人生について考えさせられてしまう。
もっとも、私は、そういうタイプの映画ばかりを選んで観ているのかもしれないが。
この作品で描かれるのは、友だちや友情をどう見るかという人生観、生き方、考え方、感じ方である。で、その「友だち像」は、私から見れば、なかなかに得がたいものだ――というよりも、ありえないほど素晴らしい友だちなのだ。というのも、私には、ここで描かれているような「友だち」はいないからだ。
「真夜中の3時に電話できる友だち」「何でも相談できる相手」なんてねえ……。
さて私としては、友人――とりわけ親友――であるという関係性は、私自身のその相手へのかかわり方、態度にあると考える。相手には期待してはいけない。期待せずに付き合い続けるという覚悟があるかどうかということだ。
要するに、私がそれだけの自己抑制を保ち続け、代償を払う用意=覚悟があるか、ということにほかならない。
前置きはこのくらいにして、物語に入ろう。
ある朝、パリでもやり手の古美術商(骨董業者)であるフランソワ・コストは、ビズネスライクな商談電話ののち、知人の葬儀に参列した。
故人はパトリック・ブルゴワンという偏屈で嫌われ者の古美術蒐集家の老人。残された遺族は老妻だけで、わずかに数人の親族だけが立ち会っていた。
教会での葬儀と埋葬式に来たのは、老妻と親族以外には、たった7人だけ。つつましやかで、寂しい告別式だった。
もちろん、フランソワとしても故人を心から悼んで会葬したわけではない。むしろ、故人の気難しさには閉口していたが、コレクターとしてフランソワがぜひとも買い入れたい骨董品を所有していたので、何とか遺族に取り入って遺品の見分に立ち会い買い入れる算段を取るためだった。つまり、未亡人に好印象を与えようとして参列したわけだ。
「何ごともビズネスライクに、誰にもビズネスライクに」がフランソワの発想、行動スタイルということか。誰にもそつなく、ビズネス上の誠意を見せながら品良く対応する。だが、接する相手は誰もがその態度に距離を感じるらしい。