さてさて、この映像物語では、きわめてユニークな形で「友情」と「パースナリティ」が描かれている。もしかしたら、「自己主張の塊」で「個性の突出」が人間関係の中核にあるといわれる現代フランス人にとっての「友情の意味」「友情の位置づけ」を描きたかったのかもしれない。
そこで、この映画での友情と個性の描き方について見ておこう。ひとりの日本人としての私の視点にすぎないのだが。
私としては、フランソワの人物・キャラクター設定について「?」がある。
私としては、カトリーヌや周囲の人物たちが――ことさらに取り立てて――言うほどに、フランソワは「自分のことばかり考えていて、友人がいるはずがない」というような人物には見えなかった。
フランスで暮らしたことはないが、フランス人(ヨーロッパ人)っていうのは、だいたいあんなもんじゃないかな、と思う。恋愛の対象としょうとする場合を別とすると、自分から相手のことを知ろうとして振る舞うようなことはないんじゃないかな。
というのは、相手がそれぞれ「私はこうよ!」と自己主張し自己表現してくるのだから、それを受け止めあれこれ分析して、相手のことを知るのではなかろうか。そして、変に相手のことを詳細に聞き出そうとすると、「プライヴァシーの侵害」とか「余計な介入」「いらざるお節介」として反感を買うのではなかろうか。
……と思ったのだが、この映画を観たら、フランス人はそれほどドライではないということかもしれない、と考え直しつつある。「相手には自分をこう見てほしい」という自己表現・自己主張(プレゼンテイション)のポリシーがある一方で、そういう外向きの構えの内側に「シャイな部分」がかなりあるんだ、と。
いや、あるいは……この映画が描きたかったのは、
「個性の自己表現が突出している」とされるフランス人の社会では、相手の立場(客観的に)から見ると、本人が思っているほど深い信頼関係が成り立っている友情や友人関係は意外と存在していないものだ、という皮肉な見方なのかもしれない。
つまり、ときどき食事をともにするとか、家やパーティに招かれて家族を紹介されたりしたとか、そういう上辺の関係では、友情の存在・成立を確かめられない、ということを描きたかったではなかろうか。
それぞれにみんなが自己中心的な価値観を表現・主張し合い個性的な振る舞いをしているのだから、お互い様で、しょせん友情とか友だちづき合いはそんな程度のものになっている。つまり、それぞれが「自分には友人が何人もいる」と自己評価していて、みんながそうだから、世の中全般に「丸く収まっている」のではなかろうか。
しょせん人間は自己中心的な存在だから、友人としている人びとについて、自分が関心のない面については無関心だったり、「余計なお節介」と言われるのを恐れてあまり深入りしない関係を築きながら生きている。それで、「友情」とか「友人関係」のイメイジが成り立っているのだ、ということではなかろうか。