ところで、フランソワが「今月中に友だちを紹介する」と言い張り、奇妙な賭けに出るきっかけとなったのは、カトリーヌが「あなたは自分のことにしか関心がない。だから友人なんかいるはずがない!」と挑戦的な物言いをしたからだった。
それで結局、フランソワはブリュノを騙すことになって、彼をひどく傷つけてしまった。
その出来事の直後、フランソワはカトリーヌから突っかかるような物言いになった理由を聞き出した。
「経営のパートナーである私に関心をもって、どんな人間かを知ってほしかったから」というのが、答えだった。
もちろん、カトリーヌはフランソワに異性として関心を持ってほしかったわけではない。そもそも彼女は同性愛者なのだから。
とはいえ、普通なら、一緒に仕事をしているがどんな人物かを理解し、そういう理解の上に信頼関係を築くはずだ。ところが、フランソワはカトリーヌという個人そのものには関心を抱かなかったらしい。
もちろん、フランソワは紳士的であり、仕事の上では誠実だったし、女性のカトリーヌを対等の立場として認めていた。その意味では、彼女を信頼できる相手として認めていた。鑑識眼や判断力にも厚い信頼を寄せていた。
しかし、彼女がどんな性格で、どんな日常生活を営んでいるのか、どんな趣味があるのか、服装の趣味は・・・というようなことには関心を持たなかった。日頃、敬意を持って接しているのだから、それでいいと思っていたのだ。
だが、それだけでは足りないということなのだろう。結局、フランソワは、パートナーや仲間や家族を尊重し信頼感を醸成するためには、相手のことをもっと知る――つまりパースナリティを理解する――ようにしなければいけないのだということを知ったのだ。というよりも、相手が自分を尊重してくれている、信頼してくれている、関心を持ってくれていると感じてもらうためには、相手を理解しようとしているという態度を示すコミュニケイションが必要なのだ。この映画はそう描いている。
フランソワは1年間、そういう周囲への気配りに注意し続けたのだろう。仲間たちは彼の態度の変化に気づき、単なる知り合い、仕事仲間から「友人」になったようだ。カトリーヌも含めて。
だから、今度の誕生祝いのディナーは――昨年のように形ばかりのものではなく――なかなかに感動的で暖かみのある場になった。プレゼントももらうことができた。娘のルイーズも発掘調査から帰国して、パーティに駆けつけてくれた。
フランソワの顔つきも柔和になった。
なるほど……「友だちづき合い」とはなかなかに難しいものなんだ――と私もこの映画で学んだ。「プライヴァシーへの介入」とか「余計なお節介」「アラ捜し」にならないように、微妙に匙加減しながら職場の仲間や知り合いに関心を寄せ続けるのは、やはり難しい。