さて、誕生日の夕食会が盛り上がってきたところで、フランソワはレストランの隅の席にブリュノがいるのに気がついた。
そこで、フランソワは中座して、席を移してブリュノのテイブルに行った。
「今夜は誕生祝いに来てくれたのかい」とフランソワが聞くと、「いや、偶然だよ」とブリュノが答えた。互いに気まずい別れ方をしたので、少しわだかまりがあるのか、互いにぎこちない態度。
それでも、すぐに打ち解けた。
フランソワは尋ねた。「100万ユーロはどう使ったんだい」
ブリュノは答えた。「離れ小島に別荘を買ってしばらく暮らしたんだけど、あぶく銭は身につかないね。もうすっかり使い切ってしまったよ」
「ふーん、そうかい」
という具合に話が始まった。
しばらくして、パリの街のなか。冬の午後だろうか。
フランソワとブリュノが語り合いながら陸橋の歩道を歩いていた。
立ち止まって遠景を眺めながら、ブリュノは話題を転じた。
「ところで、あの《友情の壺》がもう1つ出てきたらしいね。君が持っていたのは、ぼくが壊してしまった。
ということは、君が買った壺は偽物だったんじゃないのかい。君は偽物を高額で買わされたんだよ、きっと」
「そんなことはないさ。俺が買った壺は本物だったんだよ。もう1個別にあったということさ」
「いや、君は騙されたんだ。専門家のくせに。
それじゃあ、賭けるかい。君の壺は偽物だったか、それとも本物が2つあったのか」
「賭けはもうやらないことにしたんだ。……だけど、わかった、わかったよ。君は俺の親友だ。賭けに乗ってもいいが、君の言い分が正しい」
というような他愛のない会話をしながら、2人は陸橋の向こうに去っていった。
多分、そんなどうでもいいような内容の会話を続けながら、パリの街を歩き続けるのだろう。つまり、再会して話ができること自体が楽しいのであって、内容は後回しなのだ。そんな場面で物語は終わる。
ところで、話材が古いかもしれないが、フランスの教育では「自己表現」「自己主張」の大切さが強調されるのだという。自らの個性を強調して表現して自己の存在感を示すのだという。それが個人が社会(ほかの人びと)との関係性を築いていく基本的な態度なのだということらしい。
すべての個人がみんながみんなそうであるなら社会の人間関係の均衡は保たれるのだろう。みんながそれぞれに尖って個性をぶつけ合うなら。
日本のように「郷に入っては郷に従え」「出る釘は打たれる」という諺があるように、個人が周囲の状況や雰囲気に適応することが「社会への参加」の基本であるという風潮とは、ずい分対照的だ。
その意味では、この映画は、そういうフランス人観にアンティテーゼを提示するかのように、パリのフランス人の人付き合いのスタイルのある断面を描いているともいえるだろう。