ソ連指導部が無謀な冒険に打って出ざるをえなかったのは、国家崩壊の危機に直面したからです。
1960年代からソ連・東欧諸国は経済危機のなかで、「経済改革」を進めてきたました。しかし、手ひどい失敗に終わり、70年代末には深刻な経済的・財政的危機に陥っていました。
というのは、「社会主義経済」は世界市場への参入・挑戦にことごとく失敗してきたからです。
経済改革は、先進諸国との世界市場での先端工業製品や消費財をめぐる競争にこっぴどく敗れている状況が続き、今後もずっと後方に取り残されれば、体制存続の危機に陥るという危機認識によって開始されました。
ところが、腐敗した官僚装置によって支配・指導される中央指令型の計画経済では、需要を市場から探ることなく、政治的理由で生産目標を決定します。まして、民衆のニーズを把握することもありません。
「誰にどういうニーズに向けて売るか」をまるきり考えない生産体制なのです。生産財にしても消費財にしても、工業製品がニーズに対応していなければ売れず、技術開発の誘導に成功するはずもありません。
イデオロギーに酔いしれたダンスの夢から覚めた途端、鉄の経済法則が社会主義レジームを打ちのめしたのです。
その失敗が70年代末から80年代初頭にかけて明白になったのです。国営や国有の企業の再生産の危機は、国家財政の深刻な危機に直結します。
たとえばハンガリアでは、個別企業の自立的経営を認める市場経済化が後戻りできないほど進んでいました。
ポーランドでは、未曾有の経済危機のなかで労働者階級の反体制運動が勢いを増し、「連帯」が大きな権威を獲得しつつありました。
東ドイツは、西ドイツからの金融支援が経済と国家財政の大半を左右するようになっていました。ソ連の財政資金も、ドイツやフランスからの支援でどうにか持ちこたえていました。
クランシーの状況設定は、この深刻な危機を背景にしているように思います。
さて、ラミウスは政治士官を排除(抹殺)したのち、艦隊司令部からの作戦命令書を奪い、用意した偽の(亡命作戦用の)命令書を全艦のクルーに発表します。
僚艦との模擬模擬追跡・戦闘演習ののち、その高性能の「キャタピラー=無音駆動推進装置」で僚艦を振り切ってアメリカ東部近海まで行き、模擬ミサイル発射試験をおこなう。
そのち、カリブ海に移動してキューバに寄航する、という作戦航程です。
「キャタピラー」の技術的優位への誇りと作戦の壮大さに感激したクルーは、自然発生的にソ連国歌を合唱し始めます。
映画ではこののち、このソ連国歌とそれを編曲してつくったと思われる「主題歌?」が要所要所で背景に流れ、物語の荘重さや事態の緊迫を盛り上げ、同時にある種の哀愁(ものがなしさ)をつむぎ出すことになります。
それまで気にもとめたことのないソ連国歌の荘重さとメロディの美しさ、そして何より「国歌なのにこの物悲しさはなんだろう」という感動で、私としては、この曲が好きになりました。
国家の勇壮さよりも、深い哀愁や悲壮感が漂う曲なのです。
多分にこの映画独特の編曲ヴァージョンなのですが。