「訴訟社会」アメリカでは、実際に陪審コンサルタントという職業があるという。この映画作品では、ランキン・フィッチという過激なコンサルタントが登場するが、その人物像や手法はいわば「過度の誇張」のようだ。
だが「火のないところに煙は立たず」ということでもあるだろう。
実際の陪審コンサルタントは、この物語で登場するローレンス・グリーンのような地味な仕事であるらしい。そして多くの場合、原告や被告が直接に彼らを雇うのではなく、ウェンデルがそうしたように法律事務所=顧問弁護士や法定代理人がコンサルタントを雇うらしい。
法律学や心理学、情報分析・調査の専門家たちからなる職能だという。
陪審コンサルタントとしては、まず陪審員の選任手続きで原告または被告の弁護士のアドヴァイザーとして、どの人物を陪審員に選べば有利な評決を得られそうかという判断材料を提供する。陪審員の経歴や階級(仕事)、人種、性格などから、事件についてどのような見解を抱きそうかを判定して、クライアントにとってより有利な評決に傾くような陪審員を選ぶようにアドヴァイスするのだ。
その目的のために、選任手続きで弁護士に、以上の点を見極めるための質問をさせ、返答から心理傾向や意見、価値観などを分析する。訴訟事件についての意見や評価については、コンサルタントの分析や判断は、相当な程度に「当たる」らしい。もとより、巨額の金が動きそうな民事裁判に限られているのだろうが。
そうでなければ、大金を支払って雇わないだろうから。もっとも、「鰯の頭も信心から」という諺があるように、弁護士や法律事務所、企業の法務部門が、業界の共同主観に呪縛され、あれこれの陪審裁判の結果についての陪審コンサルタントの影響力を過大評価しているのかもしれない。
何しろ巨額の金額の行方が陪審員の評決で左右されるのだ。勝つための手段でありそうに見えれば、何にでも頼ろうとするだろう。
それにしても、陪審員候補のなかからどんな人物を陪審員に選び、法廷の弁論、審理で法律家がどのような質問をして、どのような証言や答弁を引き出せば、ほぼこういう方向の意見や評決に誘導できるであろう、という見通しが読めるのなら、裁判の当事者は、大金を投じても自分の側のスタッフに加えたいという衝動を持つだろう。
そういう傾向が極端に走れば、この作品のランキン・フィッチのように、コンサルティングを大規模な営利事業――「法廷傭兵活動」――として経営・組織化しようとする者たちが出現することになるだろう。
金さえつぎ込めば、IT機器や映像装置――個人情報の収集手段、盗聴・盗撮装置など――を駆使して、相当な調査活動が組織できるのだから。
以上の事情に関連して、アメリカの訴訟(ことに民事訴訟)の世界の動きが、富と権力を集積した巨大・有力法律事務所のあいだでの収益を影響力をめぐる過剰な競争・闘争によって大きく影響されていることは、周知の事実だ。
巨額の資金を投入して大がかりに資源・人材を投入できる組織や団体、企業が、法廷闘争で優位に戦いを展開するのは、厳然たる事実である。
であるとすれば、陪審コンサルタンティングがランキン・フィッチのような強引で威圧的、暴力的なものになる危険性はあるだろう。この作品は、そういう傾向・危険性についての警告ということになる。
より優れた戦力や兵器を投入した方が有利になるというのは、日本の裁判でも同様で、かつて数々の公害裁判、原発裁判、ダムや下降堰などの大規模建設裁判では、行政側や大企業が自分たちに有利な意見陳述をする学者や専門家を鑑定人や証人として法廷に呼び、金も権力もない庶民=被害者側をねじ伏せてきたのは、紛れもない事実だ。
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