サンジャックへの巡礼旅は、人びとが出会い、集い、ぶつかり合う場です。
人生観や信条や原則、感情が出会いぶつかり合う場でもあります。
そして、個々人にしても、自分の内部に他人の人生観や個性が入り込んできて、それまでの自分とぶつかり、葛藤や反発、相互理解などが生まれることにもなります。
つまり、それまで無自覚だった自分の殻を意識して、見つめ直し、それまでの自分とは違う自分を発見し、人格・個性の新たな要素をつくりあげていくことにもなるのです。
たとえばクララ。
有能な教育者ですが、知性に走る分、強固な信条=原則を持っています。
巡礼の旅の出発点となったノートルダム修道院で、旅立ちの朝のミサでのこと。
司教だか司祭だかが参加者を祝福し、旅の安全やら巡礼の成功を祈る場面でのことです。
クララは、周りに聞こえるほどの声で独りごとを呟きます。祈祷への反発・反論をいや唱えています。こんな内容です。
今ヨーロッパ中で、教会の聖職者たちによる若年者への性的虐待がはびこっている。
ヴァティカンの教皇は、世界中からの寄進や寄付、お布施で巨額の資産を集めて、それを株式投資や先物投機で運用して、したたかに利ザヤを稼いでいる。
コンドームの使用禁止という教会の戒律によって、世界中で毎年何百万もの人びとがエイズに感染し命を失っているではないか・・・と。
そんな欺瞞的な宗教団体の行事に参加するなんて・・・ブツクサ、ブツクサ。半分は、これまでの立場と原則を破る自分をなじっているのかもしれません。
仏教も神道もともに信仰して、時と場合によって都合よく使い分ける私たち日本人とは違うのでしょうか。
クララの反論や批判は的を得ているのですが、強烈な個性の表現でもあります。カミユとエルザは、クララの反論を聞きながら笑い転げています。
だが、そのクララにして、旅立ちの直前に願いごとを書き込んだのです。神を信じていなくても、誰しも祈りたくなるときはあります。
そもそも、巡礼への参加そのものが、遺産相続に与るためなのですから。
日頃の原則信条はそれはそれとして、生活者としての切実なリアリズム(現実対応や現世的利害)による「割り切り」もときには必要です。
もっとすごいのは、サイードとラムジです。
2人はそもそもイスラム教徒なのに、カトリック教徒がおこなう巡礼に参加するのです。
もっとも、ラムジは騙されてのことなのですが。サイードは恋する女性への接近というニーズのために、ラムジを騙したうえに、目的意識的にカトリックの行事に積極的に参加しているのです。
そして、カトリックの修道院で、これまた自分の欲求=願いごとを書き込んだのです。
もちろん、ラムジもリテラシーの獲得という切実な現世的欲求を抱えています。彼は、巡礼の聖地メッカに行くものと信じているのです。文字が読めないので、途中の案内板の意味がわからないのです。