人前で口を開けば「教会の建前」「神の愛」を言い放つ聖職者たち。信者たちには誠心誠意や清貧を求めがち。
しかし、ひるがえって自らを顧みると、彼らもまた、教会という経営組織や世の中での暮らしとか権力闘争、駆け引きのなかで生きているのです。
だから、自己保身(我が身かわいさや出世欲)と教会組織の建前とのあいだに絶妙のバランスを見つけて生き抜こうとするリアリストです。
自己主張や自己表現が何より重要とされるフランス社会は、各人の原理原則や利害が激しくぶつかり合う社会だともいわれます。そして各人の内部でも外向きの原理原則(たてまえ)と本音の利害がぶつかり合っているようです。
けれども、原理や主張の言葉が勝手に自分から動き出すわけでもありません。担い手がいて、彼らが行動や態度に表わすから、原理や主張は世に現れるのです。そして、個人や集団のあいだの言い合いとなるのです。
こうして、本音としては自己の利害を守るために原理原則を言い立てる個人や集団のあいだのぶつかり合いや駆け引きが繰り広げられるのです。
だから、外面として厳格さを誇示しようとする原理原則の立場は、いざ自分自身の生活や利害にかかわる空間では、重力で曲げられる光よろしく、いくらでも柔軟に曲がりくねることになります。
もちろん、誠実に生きる聖職者もいます。そういう人は他人に対して穏やかで柔軟です。相手を尊重するがゆえに、自己犠牲をいとわないのです。
というのも、目の前の人を救うことこそ最優先で、形而上学的な神学論争は後に回すからです。
この物語にも、さまざまな聖職者が登場します。
まずルピュイの修道院の尼僧たち。
修道院では、旅立った巡礼者たちが書き残していった願いごとを、翌朝の祈祷で司祭の祈祷のなかに織り込むように読み上げることが日課になっています。そのために、尼僧たちは願いごと用紙を選別・検閲しているのです。
そのさい、教会――内部に序列位階がある権力組織にほかなりません――の原理原則に抵触しそうな願いごとは、どれほど切実であろうとも、表現を勝手に変えるばかりか、無視したり切り捨ててしまいます。自己保身や上位者への忖度が渦巻く選別がおこなわれるのです。
巡礼者たちがどれほど切実な願いごとを書いていようとも、そこには、彼女らの主観や価値尺度が容赦なく入り込み、勝手に切り刻むわけです。
かくして、巡礼者たちの願いは尼僧たちのフィルターによって薄められ、捻じ曲げられ、方向を変えてしまうことになります。
早朝の祈祷で聖堂に響く「公式のメッセイジ」となり神に届くのは、願いごとを書いた本人たちの望みそれ自体とは遠くかけ離れた、尼僧たちの好みに合った「公式文書」となってしまうのです。
司教様の「覚えめでたい」願いごとを選んだ尼僧は、こうして修道院で立場を維持し評価を高めていくのです。神への願いごとも、こうして教会の内部の権力関係や出世欲の仕組みをつうじて、濾過されるのです。
もちろん、巡礼者の安全と便宜のために懸命に奔走する司祭もいます。
夏の西フランスの日没は遅く、21時(午後9時)頃になるでしょうか。
朝時刻を1時間早める夏時間だと、なおのこと時刻の進み方は速いので、そこでの日没は日本時間では22時(午後10時)頃でしょうか?
その日、ギュイが率いる一行が教会のある集落に到着したのは、20時過ぎでした。
何かの理由で遅くなってしまいました。外はまだ明るいのですが。
普通ならもはや宿泊場所や夕食の手配が困難な時刻です。
でも、巡礼団一行が窮していることを見てとった司祭は、一行に手伝ってもらいながら夕食の準備をし、教会の内部に安眠の場所を確保しました。
とはいえ、こういう誠実で良心的な聖職者は例外として描かれています。