さて、上り坂の途中に、その朝、キザったらしく格好つけて宿泊所を4時半に出発した若い男がへばっていました。
その男は、エルザやカミユやピエールたちを「ダサい」と小馬鹿にして、最新流行の登山用具を見せびらかして、宿を出ていったのです。
そのあげく、彼は「巡礼旅なんて、苦しいだけでバカらしい。もうやめた。タクシーを呼んだのさ」と嘯いて、道の傍らに座り込んでいました。
彼は、とにかく流行の最先端を追うことで、自分をよく見せようという心根の人物です。だから、巡礼がブームとなれば、とにかく飛びつく、しかもやはり流行の最先端の便利なグッズをそろえて・・・。
ピエールやエルザたちは、その男に皮肉を込めた「返礼」を突き返すことで、別れの挨拶としました。自分はあんなに薄っぺらな人間ではない、と見栄を切り、意地を張りました。
ところが、やがてピエールは、山脈の最高地点まであと少しのところで、草原の上り坂を喘ぎながら歩くことになった。
「ああ、あんなに立派な啖呵を切ってしまった俺は、バカだ。こんな苦しい思いをするなんて」と自分に毒づきながら。
だが、歩きをやめることはありませんでした。矜持を捨てるわけにはいきません。
さて、話を戻しましょう。エスパーニャは15世紀から今日まで「連合王国」です。
主要な州だけでも、
権力の中枢を保有するカスティーリャ王国、
古い文化と豊かな商業史を誇るカタルーニャ=アラゴン連合王国、
自立志向の強いヴァスク(バスコ)を抱えるナバーラ(ナヴァル)王国、
そしてバレンシーアやアンダールシーアなど
が寄せ集まってできている国です。話す言語も違っています。
カスティーリャ以外の地方は、いわば周囲の列強の都合やフランコ独裁政権の脅迫を受けて仕方なく、エスパーニャ王国に統合されていたようなもの。少なくとも、そう思っている人が多いのです。
この数百年のあいだに地方州の独立志向とその抑え込みをめぐって、何度も血なまぐさい反乱と圧殺の経験を繰り返してきたのです。
とりわけ富裕な商都バルセローナを擁するカタルーニャは、カスティーリャ――その強い影響下にあるレオン州やガリーシア州――の財源不足を補うために、この400年間ずっと、重い課税にあえいできました。ほとんど見返りもなしに。
ヴァスクの独立運動はもちろんのこと、カタルーニャやナバーラも、カスティーリャの中央政府には楯突くこともしょっちゅうあるのです。ヨーロッパには有力な国民国家への統合を拒み続けてきて、ことあるごとに中央政権に楯突く地方州や都市がじつに多いのです。
つい先頃にも、カタルーニャ州の政府が独立宣言をしてマドリード政府と深刻な敵対状態に陥りました。そういう州や地方は、エスパーニャ王国という枠組みは気に入らないけれども、EUという国民国家を超えた枠組みにどうにか安堵や親近感を得て、過激な独立運動を自己抑制してきました。
彼らは目の上の連合王国とそれを牛耳るカスティーリャ中央政府は気に食わないけれども、その上にEUという国民国家を超えた政治組織・行税制組織があることが、強い慰めになっているのです。汎ヨーロッパ的な原則にしたがって中央政府に掣肘を加え、ときには中央政府に反対してEU裁判所や委員会にに提訴して、中央政府の政策に「待った」をかける権利が認められることもあるのですから。
ブリテン連合王国では北アイアランドやスコットランドが、ロンドンの中央政府には信頼を置かないけれども、国境を超えた連帯を唱えるEUという枠組みに癒しを見出してきました。ところが今、政治の世界で右派民族主義ないし反EU勢力が台頭してきて、難民受け入れ問題と絡めてトランスナショナルな統合や連帯を攻撃しています。
もしナショナリズムが政治を席巻することになれば、これまで独立運動を自己抑制してきた地方州の住民と政府が中央政府への抵抗やプロテストを強めていくでしょう。つまり国民国家の統合の衰退となるのです。ナショナリズムの台頭が国民的統合を弱体化させてしまうというパラドクスがあるのです。EU離脱を決めたブリテンは、今後、スコットランドや北アイルランドの分離独立傾向に苦悩することにンなるでしょう。
話をエスパーニャに戻すと、ピレネー(ピリネオス)の辺境地帯やナバーラ、カタルーニャには、こうしたエスパーニャ中央政府に対する自立心が強い人種や民族が多いのです。
が、エスパーニャの中心部(マドリードやプラード)に近づくほど、中央集権的な、あるいはカスティーリャ中心主義が強まっていくようです。
遍路道をたどる一行がブルゴスという大都市に近づくと、ますますそうなっていきました。