アンスンは戦場の経験によって、ひどい精神的な傷を負った。そして、ガラードの部下たちも戦場の恐怖から逃れようとアルコールに耽溺することになった。前線に投入された若い兵士たちの心理や精神はひどく荒廃することになった。その背景はこうだ。
第1次世界戦争では、フランス北東部からベルギーにかけての最前線で公戦の歴史上はじめて毒ガスが使用され、大型機関銃や戦車が投入され、きわめて凄惨な戦い、殺戮戦になった。そのため、ブリテン軍やフランス軍、ドイツ軍では、戦中から戦後にかけて、現役軍人や退役者に夥しい数の「心的外傷」の罹患者を生み出したという。
装甲戦車の「タンク:水槽」という英語の呼び名は、ブリテン陸軍が兵器開発の秘密を守るために、開発に携わる将官や科学者、技術者が装甲戦車を「タンク」という愛称で呼んでいたために定着したものだ。実態を表さない暗号名が定着するのもブリテンらしい。ドイツ語では正確に「 Panzerkampfwägen : 装甲戦車」と呼ぶ。
この物語の背景の1つは、この戦争の悲惨な傷跡である。
前線では塹壕がつくられていた。だが、従来よりもはるかに高性能の大砲や破壊力の大きな砲弾・火薬や機関銃、タンクなどの登場で、前線の塹壕に配置された兵士や将校たちは、それまでの訓練や調練では対応できない――したがってまた正常な心理・精神状態を保てない――ような凄惨な殺戮と破壊、戦闘を経験した。
もとより塹壕戦は、17世紀には本格的にヨーロッパ各地の戦線に採用されていた。
頭を下げれば地面よりも姿勢を低くできる深さで、地面に人が通行できるほどの幅の屈曲した溝を掘って、攻撃と防御のための経路や陣形が塹壕である。このような遮蔽と進撃路を兼ねた構築物が前線に持ち込まれたのは、銃砲の発達が原因だった。
15世紀に大砲は主に攻城戦に導入され、こうして敵側の兵站拠点であるとともに防御構築物である城塞を破壊することに野戦の重点が置かれるようになった。攻城砲で城塞=防御の一角を破壊して、そこに銃撃や軽騎兵、槍兵を集中的に投入するのだ。
すると、城塞防御の側は、稜堡型築城(五稜郭のような星型城塞構築 bastion fortress )の技術を発展させた。城の主要部を後ろに下げて防御を深くしながら、突端部の遮蔽を厚くして、城壁に銃眼を開けて接近する敵を撃退するためだ。敵の接近を阻むために稜堡の外側には下りのスロープ、さらには濠をつくって城郭を囲んだ。
攻撃側は火砲の射程や破壊力の拡大で対応した。こうして、濠やスロープの外側からでも、攻城運動を仕かけられるようになった。
そうなると、攻撃側は城郭までの接近経路と遮蔽物を構築する戦法を編み出すようになった。防御側も、城塞の外側に防御陣形を配備する必要が生じた。こうして、攻防の双方の戦術開発の結果、塹壕戦法が生み出された。
やがて銃や大砲の破壊力と殺傷性能が高まっていくと、塹壕はあらゆる野戦に適用されるようになった。作戦の拠点基地となる掩蔽壕や遮蔽壕(トーチカ)のあいだをジグザグの塹壕で結んで(攻撃と防御の)最前線を組織するようになった。
塹壕戦が本格化するのは、フランス革命からナポレオン戦争の頃にかけての時期で、さらに軍隊の戦術や組織形態が整うのは、19世紀の終わり頃だった。
その頃には、大砲(野戦砲)は、鉄や合金の砲丸を発射する旧来の方式から、爆薬と信管(着弾の衝撃で炸裂・爆発させる)を詰め込んだ砲弾を撃ち出す方式に転換して、破壊力と殺傷力を桁違いに高めていた。
だが、こうしたテクノロジーや戦法に兵員たちを順応させ、恐怖心や精神的ストレスを抑制するための訓練法を人類が手に入れるまでには、2世紀以上の年月が必要だった。
20世紀になってから、とりわけ1920年代に――ジークムント・フロイトが典型――心理学や精神病理学が飛躍的に発達したのは、第1次世界戦争などの悲惨な戦争体験で精神にひどい病理障害を負った多数の復員兵たちを癒すことが、社会的・国家的な課題になったからだという。