日本人が普段「イギリス」と呼んでいる国の正式の名称は、《グレイトブリテンおよび北アイアランド連合王国 United Kingdom of the Great Britain and the Northern Ireland 》――欧米での呼び名としては「ブリテン」または「連合王国 UK 」だ。私たち日本人は国名を意識することもなく――イギリス」(日本語の「ギ」は鼻濁音なので、ヨーロッパ人には「インギリス」と聞こえる。
イギリスという表記は、江戸時代にネーデルラント(ホラント人)たちが「エングレース」と呼んでいたのを真似し、さらに明治以降、その読みがイングリッシュと混交・「英語化?」して「イギリス」という中途半端な呼称になったようだ。
まあそんな風だから、ヨーロッパ史の専門家以外の一般の日本人には、この映画作品の背景となっているウェイルズ人たちのイングランドへの対抗意識を理解するのは難しいかもしれない。
そんなわけで、まあどうでもいいことなのだが、例によってその話題をここで取り上げてみたい。
ブリテンが国名として「連合王国 United Kingdom 」と自己表現するからには、そこにはたんなる単一国家ではなく「連邦であって、連合国家」であるという意味が込められている。
愚かな日本の政治家がときたま「日本(人)は単一民族だ」なんて言って自分の政治的地位を危うくしているが、ヨーロッパなら即失脚となるはずだ。日本では、国民意識や国家意識にこういうバカげた「幻想」や「ごまかし」が紛れ込んでいるのだ。
ところが、ヨーロッパの国家をめぐる表現や意識・イデオロギーはもっと洗練されている。そして、「連合王国」という呼称には、いくつかの異なる民族や地方政治体(領邦)が並存していて、独特の王政レジームによって統合されている、つまり、王という象徴=擬制の権威をまとった政治的・法的・軍事的強制権力の拘束によって統合されていることが含意されているわけだ。
現行の日本国憲法では英語版原案の邦訳をもとにしているから、「国体主義者」と「民主主義推進派」との妥協のなかで、「天皇は国民統合の象徴」であるという曖昧な表記になっている。ところが、「そこには複数の民族(エスニシティーズ)が天皇という象徴的権威のもとに『単一の国民』として政治的に統合されていますよ」という文脈が語られているのだ。しかし、日本の学校・大学教育の憲法学習では、このことは説明されることはない。
護憲派も改憲派もともに、このことを素通りして語ることはない。そこには「レトリック上の誤魔化し」があるにもかかわらず、触れたくないのだろう。たぶん――深刻な論争を呼び起こすだろう――国家理論抜きで憲法を語りたいのだ。
ヨーロッパの国家理論では、国民 nation とは、通常、国家という制度で政治的に統合された《複数の民族・文化・人種集団または地方政治体》からなる住民集合を意味する――民族と文化には当然のことながら宗教も含まれる。したがって、国民という政治的集合の内部には、つねにいくつかの民族・文化・人種集団、地方のあいだの格差や差別、序列化の問題とその克服ないし解消という課題が随伴しているのだ。
そこにはこうした諸集団のあいだの血なまぐさい闘争や紛争、利害駆け引きの長い歴史が横たわっているわけだ。憲法レジーム上、地方自治や地方政府のかなり高度な主権や独立性が、法のもとで平等と並置されて認められているんも、そのためだ。
ブリテン連合王国の国旗「ユニオンジャック」やアメリカ合衆国の国旗「星条旗」には、それやこれやの――王政なのか共和政なのかというレジームの違いも含めて――歴史的・文化的問題群が象徴的に凝縮されているのだ。ところが、単純簡潔でで美しい日本の国旗では歴史や文化の歴史や構造は、みごとに昇華されて消え去っている。