陸軍測量部の測量技師、アンスンとガラードがこの集落に到着したのは、日曜日の朝だった。
ほとんどの住民が教会の礼拝に出かけていた。だが、宿屋兼酒場 inn の主モーガンは店にいた。罰あたりのモーガンは、朝から若い女性を自分の部屋に引き入れていたのだ。
陸軍測量部の2人の技師は、モーガンの宿屋に宿泊することになった。
アンスンとガラードはモーガンに、自分たちは陸軍測量部の技師でフュノンガルウを標高を測量し直すと告げた。そして、機材をフュノンガルウの頂上まで運び上げるために、住民のうちの誰かを雇いたいが心当たりはあるかと尋ねた。
この2人、重い機材を自分たちで運ぶつもりは、はなっからないようだ。肉体的労働を自分たちの仕事ではないと頭から決めつけているこの心性こそ、彼らがジェントルマン階級つまりエリートに属している――と少なくとも自分たちは考えている――何よりの証左だった。だが、2人には、なんら悪気はないのだ。
そういう階級や家庭環境に生まれ育つと、スポーツ以外で汗まみれになって肉体を動かすこと、すなわち肉体労働は自分たちの仕事ではないという「常識」が心底身についてしまうのだ。
ここには2つ意味での階級格差・階級構造が描かれている。
1つ目は、アンスンとガラードは陸軍の将校であって、その地位には通常、庶民出身の軍人はまず手が届かないようになっているような、厳然とした軍組織と社会におけるヒエラルヒーの仕組みが存在するということ。
2つ目は、彼らは軍の中央機関から地方=辺境に派遣された権威の担い手(権威や権力の伝達者)であって、測量機材などの荷物の運び人――すなわちワーカー――は、それなりの報酬で雇われた現地の住民であって、2人はその使用者であるという関係だ。
物語が始まってからたったの数分で、この映画は、これだけの――ここまで回りくどく述べてきた――社会的・文化的背景や歴史的状況を描き出してしまう。いやいや、ブリティッシュ映画の描写力の深さ、確かさには、恐れ入ってしまう。これだから、ブリテン(ヨーロッパ)の映画は油断ができない。
私はヨーロッパ、とりわけブリテンの映画を見ようとするたびに、「今度は何を学ぶことになるのだろう」と身構えてしまう。私にとっては、映画は社会史研究の扉であり資料なのだ。
さて、ガラードから「測量機材の運搬のために住民を雇いたいが、心当たりはないか」と尋ねられたモーガンは、「砲弾恐怖症のジョニー」を薦めた。戦争の後遺症で精神のバランスを失ったジョウンズ――牧師ではない方のジョウンズ――だ。
というのは、この集落の普通の住民はウェイルズ人であることを誇りにしていて――言い換えれば、イングランドへの抵抗意識丸出しで、いくら金を積まれても「誰がイングランド人になんか雇われるものか!」ということになるのだ。だが、おとなしくて精神障害のためにそういう反発心・対抗意識を持たないジョニーなら、測量機材運びを手伝ってくれるだろうと考えたからだ。
ところが、モーガンがジョニーの家に説得に行くと、そこには彼の姉ブロッドがいて、弟の臨時雇いの仕事への就任を断った。もちろん、何よりもジョニーのことを心配したからだが、さらに姉は女たらしのモーガンを嫌っていたからだ。